第一話 今日出た宿題は「身近な人に大切な人との出会いについて聞く」というものだった。きっと昔は「両親の出会いについて聞く」だったのが、時代にそぐわないと変えられたのだ。それなら、この宿題ごと無くしてくれればいいのに、と望海は思った。どうせ自分は親に聞く以外ない。それがあまりにもダルかった。 「海鈴お母さん」まずは一人目に聞く。 「なんですか?」 「宿題出た」 「そうですか。どれどれ見せて…おお」 その後母は、自分とパートナーとの出会いがいかにロマンチックであったかを長々と語ってくれた。間違えてAve Mujicaの寸劇台本を読んでいるのではないかと思った。「その話じゃ長すぎるよ」と言ったら、「では書き起こしましょう」と言ってスマホを打ち始めた。年甲斐もなくウキウキする母は、やはりダルかった。 一応もうひとりにも聞いた。「立希お母さん」 「何?」 「どうして海鈴お母さんと結婚したの?」 「お前それは…この世には理屈じゃ説明がつかないことがあるんだよ」 今回は母がダルそうに言った。話が食い違ってる気がしたが、深追いはしなかった。海鈴の叙事詩と立希の呟き、どちらを提出するかは迷うところだった。 「とーんちゃんのお母さんたちって、どこで出会ったの?」名前の漢字がよくわからない、少し年下の友達にも聞いてみた。母同士のバンドが同じとかで、家族ぐるみの付き合いがあった子だ。 「あのママがたまたまバンドに誘ったんだって。ともママ、あのママはすごいってよく言ってる。そうは見えないけど」 望海は彼女のチャラチャラした方の母とオドオドした方の母、両方がやや苦手だった。この娘のことを真面目に叱らないからだ。そのくせこの娘は、やけに多方から愛されていた。 「うちはよくわかんなかった。海鈴お母さんだけハシャいでた」 「あ〜立希おばさんそういう話しなさそ〜」 「結婚てそんなもんかな」 「あ、ね、知ってる?立希おばさんって、ともママのことが好きだったらしいよ?」 とーんがニヤニヤしながら言った。親のそんな話は聞きたくなさすぎた。ムカついたので頬をつねったら、大袈裟に泣き出して、誰かに言いつけに行った。せめて自分の親に言えば良いのに、彼女は立希に言いつけた。クソガキだった。 「とにかく友達はいじめるな」 「いじめてないし」 「減らず口…海鈴もなんか言え」 「立希さんは私一筋でしたよ」 「バカ!」 このような事情もあって、望海は運命の出会いなんて信じなかった。第一、親にも反発していた。無愛想な母と冷たい母。下手に有名なせいで、このイメージがいつも自分について回った。 「ティモリスの娘じゃ〜ん」黙れとーん。私はあんな不気味な団体の身内になった覚えはない。優しく、可愛いものに憧れているのだ。例えばパスパレ。例えばそよさん。「あんまりお母さんを困らせちゃダメだよ〜?」…そよさんは可愛さがちょっと足りないけど。 とにかく、絶対淑女になって、いつか堅実な出会いをする。幼き少女の決意であった。 「そのフリフリは…どうなんでしょうか?」 「なんで」 「あの…こっちの方がカッコいいですよ」 「カッコいいのいらない!可愛いのがいいの」 「服はいいけど、外で変な喋り方はするなよ。わたくしとかですわとか」 「私の勝手でしょ!」 こんな具合でよく喧嘩した。祖母からもらった服を着ると海鈴がそれとなくやめさせようとしたし、丁寧に喋ろうとすると立希が苦い顔をした。納得できないし、信用できない親たちだった。 「ほらこれ、パンダは可愛いでしょ」 「パンダは子供っぽい!」 「ハァ?」 淑女っぽいことは色々試してみたけど、どれもピンと来なかった。紅茶は違いがわからなかったし、花の名前は覚えられなかった。でもとりあえず良い格好は出来たので、よしとして、次に行った。これの繰り返し。その日は、ひとりで星を見てみることにした。星はたぶん可愛いからだ。 都会で星を見るならプラネタリウムへ。優雅なひととき。でも早速つまずいた。「あれ?あれ?」設備が古いからか、プラネタリウムのリクライニングが動かない。これじゃあ淑女には… 「大丈夫ですか?」 すっと横から手が伸びて、助けてくれた。見ると、同い年くらいの少女がいた。涼しい髪色と夜空色の瞳をした、上品な服装の、まるでお人形みたいな子。 「あ、ありがとう…ございます」 「どういたしまして。ここは初めて?」 少女はにこやかに笑った。それを見たら、心臓が高鳴った。顔が赤くなるのを感じる。 「う、は、はい。そうです」 「ぼくも、ひとりで来るのは初めてなんです。ふふ、ごめんなさい、ちょっと心細くて」 (本物だ…)と、思った。母はよく本当になれ、と言っていた。紛い物の自分が恥ずかしくなるほどに、彼女の立ち居振る舞いは本物の淑女だった。 「貴女も星がお好きなんですか?」 「え、えと、好き、かも、です」 「わぁ、ぼくと同じですね。素敵!それにその服」 「ひゃい」 「とっても可愛くて、お似合いです」 もうダメだった。星が出てからも、隣のその子を、見ていた気がする。彼女は天球の全てを照らすごとく輝いていた。ぽわぽわしていたら、プラネタリウムは終わっていた。 「こうして星が好きな方に会えるなんて、嬉しいなぁ。よければ、お友達になってくださいませんか?」 「と、ともだち…ぜ、ぜひ!」 「やったぁ!また日を改めて、お話しましょうね」手をギュッと握られた。ちょっとひんやりしていた。これは自分の体がカッカと発熱しているからだ。 「ぼくは、豊川さつき。よろしくね?」 「は、はい!あの、私、椎名望海、です!よろしく!」 連絡先を交換して帰った。「じ、じゃ!」「ふふ、さようなら」ああなんという僥倖。家に着いても、天たにも昇る心地だった。また彼女に逢えるなんて。 「おや居間でも勉強ですか?感心ですね」 「最近は学校でこんな星とか覚えさせんの?」 「集中できないから黙ってて!」 第二話 漢字で書かれた私の名前を、初見で読める人はいない。だから自己紹介のとき、毎度似た様なことを言われて、こちらからも似た様なことを言うという、かったるい一手間がある。このことで母を恨んだことはない。理由は簡単で、こんなことでいちいち恨んでいたら、キリがないからだ。 「と、とーんちゃん…あんまりみんなを困らせちゃダメだよ?」 「はーい」 「ほんとにわかってるのかな…」 「はーい」 「ぉ…じゃあ、や、約束ね」 たぶん、探せば過去に一字一句同じ会話をもう一つくらいは見つけられる。それくらい燈のお説教は無意味で、とーんの素行を根本的に解決することは一度も無かった。おそらくこれからも無い。しかもとーんは下手に色んなことをそつなくこなせたので、もはや母にしっかりして欲しいと思うことが無くなっていた。 それでいて、大体のことを愛嬌で乗り切る術ばかりは育っていた。このあたりはたぶん、もうひとりの母譲りだ。 「ぁ、あのん、ママからも、言ってあげて」 「本当に反省してるワケ〜?」 「うん。望海ちゃんにごめんしたし」 「ならいいけどさ〜」 「お前は調子に乗ってる」 望海が言った。とーんの母たちのバンドのドラム担当の娘で、とーんの幼馴染だった。もう一人の母は有名バンドのベースだったが、望海はその両方の楽器を、可愛くないという理由で嫌っているらしかった。 「別に乗ってませ〜ん」 「ほらそれだ。お前は自分勝手で、ひとりでなんでもできると思ってる。だから周りをおちょくるんだ」 「思ってないし」 「親の顔が見たい」 「よく見てるでしょ〜」 「お前のお母さんがしっかりしてないから、立希お母さんはたまに徹夜で曲を書いてる。徹夜明けは私と海鈴お母さんに当たり散らす。実質、お前のせいだ」 「それ私に関係なくない?」 「ともかく!」望海がエアドラムを叩く。 「私たちもバンドをやろう。ひとりじゃできないことをやるんだ。とーんの仕事くらいは信用してやる。私の信用に応えるべき」 「…じゃあ私がギタボね?」 「そら見ろ。調子に乗ってる」望海は呆れて言った。 「望海ちゃんとバンドやる」 「ぇ…ぁ…良い!すごく、良い、と思う」 「え〜幼馴染でバンド?Afterglowみたいで良いじゃん!」 夕飯の時間に話してみたら、両親は喜んだ。燈も珍しくテンションが高い。バンドってそんなに良いものなのかな。でも学生時代のバンドをまだ続けてて、種族が違うみたいな両親が結婚するくらいだから、きっと良いものなんだろう。そう思うと、とーんもワクワクしてきた。 「ギタボやりなよギタボ!ちょっと弾けるでしょ?」 「うん、ギタボやる。私もう、あのママより上手いよ」とーんの冗談に愛音は苦笑した。 「ぉ、すごいね…バンドの、他の子たちは?」 「なんか望海ちゃんがひとりは目星がついてるとかって。多分これから集めるんだと思うよ」 「まずはふたりでも良いんじゃない?sumimiって知ってる?昔いてさ〜」 「ぁ、あの!楽器とかできなくても、バンド、できるから!歌もあるし…大丈夫だって、言ってあげてね!」 「いや、ともりママ…とーんがギタボやったらボーカルはもういらないでしょ…」 「ぁ、そっか…じゃあ、タンバリンとか…」 とーんはこの先は話半分でいいと判断し、晩ご飯に集中した。 「バンドやるかも。とーんちゃんと」 「おお。素晴らしいですね」 「幼馴染とバンドって…めっちゃいいじゃん」 所変わって椎名家。やはり立希も海鈴も喜んだ。順風満帆。望海はすでに手ごたえを感じていた。 「で、ベースかドラムですか?教えますよ」海鈴はウキウキだった。でも彼女があまり指導に向いてないことは娘の望海が一番知っている。 「どっちもヤダ。メロディやりたいから、ピアノかバイオリン」両方、望海の希望で習っている楽器だ。 「バンドなら普通キーボード。Morfonicaのカバーがしたいなら、弦が足りない」 「…じゃあキーボード」 「良いじゃないですか。うちの曲弾きますか?」 「無理に決まってるだろ。で、他のメンバーは?」 「ひとりは最近知り合った子に声かける。あとは未定」 「そうなんだ。人はよく選んだ方がいいよ。こういうのは一生もんだから」立希はチラッと海鈴を見た。 「ちゃんと信用できる仲間を選ぶんですよ。曲が欲しければ立希さんが書きますからね」 「お前なぁ…まぁ暇があれば…」 バンドの話になると、ふたりとも楽しそうだった。やっぱりバンドを通じて得た絆は特別なのだ。望海はほくそ笑んだ。 第三話 自分が所謂"お嬢様"であることに、人生の早い段階で気が付けたのは、豊川さつきにとって幸いだった。振る舞いを間違えることがなかったからだ。 「手のかからない子ですわね」 祥子は言っていた。これも母たちの教育が良いからだと、さつきは子供ながらに思っていた。初音は、惜しみのない愛で自己肯定感を育ててくれた。祥子は、初音の代わりにあえて厳しくすることも忘れなかった。 実は本当に小さい頃は、厳しい祥子が苦手だった。でも一度、さつきが自分のひどいお転婆で死にかけたとき、初音が彼女を怒鳴りつけたことがある。すごく怖かった。そのときだけは、後で祥子が優しく慰めてくれたのだ。 「初音があんなに真剣に怒るのは、貴女だけですのよ?」 夜中にこっそり、肉まんを半分こ。祥子は嬉しそうだった。それ以来、大好きな母になった。 家は小高い丘の上の一軒家。心無い子から吸血鬼の城、なんて言われたが、星が綺麗な夜にはバルコニーで初音がギターを聴かせてくれた。 「聴きたい歌、ある?」 「『ImprisonedⅫ』が聴きたいです」 「えぇ…ほ、他の曲にしない?」 「では『礎の花冠』を」 「そういうの好きですわね貴女…」 「ちょっとエピソードがお嬢様すぎるよ…」 「ふふっ、だったらそれもお母様たちのお陰ですね」 「私にはそんな話無いよ。バカみたいな親だし…」 「そんなことおっしゃらないで。ぼくの母は多分海鈴さんを信頼してますよ」 「…それ聞いたら涙流して喜びそう…」 椎名望海。最近出会った子。星が好きだって言うから、友達になった。さらに聞けば、母同士に様々な縁があった。「何て偶然。ぼくたち、運命の出会いかも知れませんね」とさつきが言ったら、真っ赤になって照れていた。 「ところでさ!あの…えと…私たちも、バンド…やってみない?」 「え?」 「いや、ほら、お互いバンドファミリー?みたいな感じで。ほら、私たち、運命、かもだし。良かったら、なんて…」 「素敵!それって、すっごく素敵です!ぼくもいつかバンドやりたいなぁって思ってたんです!」 さつきが感極まってギュッと望海の手を握ると、望海はまた顔を赤くしていた。 「や、やった……あ、じゃなくて!楽器とか、何やるの?」 「バンド回りなら大体は。ぼく、なんでも頑張ります!」 「ハァ?」ワクワクしているさつきに、望海は立希みたいな声を出してしまった。 立希はよく娘に「自分と他人を比べるな」と言い含めていた。それでも望海はさつきの異常な音楽スペックに愕然とし、強い羨望を抱いた。 「えと、とりあえずあと友達をひとり誘おうかな、と思ってて。あ、もちろん、嫌なら、やめるけど」 「いえ、新しい出会いもバンドの醍醐味です。もしよろしかったら、ぼくの友達も誘ってみましょうか?ドラムの好きな子がいるんです」 むしろ望海は、さつきと仲の良い友達に少し嫉妬した。でもよく考えたら、友達がいるのは当たり前だった。それから、自分は運命の出会いだと思い出して、平静を取り戻した。 「いいね。私も、さつきの友達に会いたいな」 「じゃあ今度ご紹介しますね。ちょっと不思議な子で…いつも祐天寺さんのところにいらっしゃるんです」 「祐天寺って…ええ、あの女優の?…あ、というか、そうか、ムジカの人か」 そういえば母と同じバンドだ。思えば、こういうことを海鈴は全然教えてくれない。海鈴も家族ぐるみの付き合いをしてくれていれば、自分もさつきともっと早く出会えていたのに。全く信用ならない母だった。 「ええ。だからドラムなんですって」さつきはくすくすと笑った。その仕草まで上品だった。 その晩さつきは、曲を書いていた両親に声をかけた。 「どうしたの?」 「あの、ぼく、バンドをやるかもです」 「あらあら、素晴らしいですわね。して欲しいことがあったら言ってね?」 「必要な楽器とかあれば買ってあげるからね!」 「それは要相談ですわよ」祥子がピシャリと言うと、初音はしょんぼりと小さくなった。 「バンドで新しい子と会うかもしれないんですが、それは少し不安です」 「そう、まぁ不安はつきものですわね。とにかくなんでもひとりで背負い込まないこと。何かあったらわたくしたちに言うのよ?」 「うん、私たちは絶対味方だからね」 「ありがとうお母様」暖かい言葉だったが、気になることもあった。「…なんだか祥子お母様がいつもより優しい気がします」 「まぁ〜失礼な子…わたくしはいつでも優しいですわよ」祥子は怒ったが、初音は笑っていた。 「さきちゃん、バンドのことになると、アツくなっちゃうからね」 「それは…色々ありましたから」 そう言うと祥子も笑った。多分この辺りに、両親は秘密を隠している。しかしさつきは、秘密を聞くには自分は幼すぎると直感し、詮索はしなかった。両親から引き継いだ慎ましさだった。 「とにかく、好きにやってみなさいな。多少上手くいかなくても、いい思い出になりますわよ」 「思い出、ですか」 「そ、大事ですわよ思い出は。初音なんて、モノで溜め込みますのよ。貴女が初めて書いた歌を、額に入れてとってるんですから」 「そ、それはちょっと恥ずかしいです…」 「なんか私のことバラされてる…?そう言うさきちゃんだって」初音が抗議しようとすると、祥子は耳を塞いでパタパタとキッチンに逃げていった。初音は口を尖らせた。 「ああやって都合の悪いことは忘れようとしてる。ズルいよねぇ?」 「あはは、良いじゃないですか。祥子お母様は忘却の女神様なんでしょ?」 ふたりが悪戯っぽく言い合っているとキッチンから「何年前の設定ですのそれー!」と聞こえてきた。やっぱりバンドは楽しそうだ、とさつきは思った。 「ところで誰とやるんですの?」 「海鈴さんの娘さんです」 「ンッ!?う、海鈴ちゃん?ってことは」 「立希の子ですわね…ハァ…出会うものですのね」 「ぼくもすごい偶然だと思ったんです。これもう運命ですよね!」 「さつきちゃん…好きだね…運命とかも…」 「でもあんまり口には出さない方が良いですわよ…」 第四話 私の母は、怪物らしい。どこからかそれを聞いたとき、幼さゆえに不必要な不安を感じた。じゃあ私は?怪物の娘なら、怪物になっちゃう?心配になってにゃむに聞いたら、頭をくしゃくしゃと撫でられた。 「たとえ怪物でも、あんたは愛されてるでしょ」 髪は乱れたが、安心は得た。名は長崎燐音。不思議な家族だったが、それなりに、健全に育った。 …それなりに、である。両親は、やや親に不向きだった。最近もそれで、不良があった。睦がこう言ったのを聞いたのだ。 「そよは、子供を欲しがってなかった」 燐音はその日のうちに家出した。行くところは吸血鬼の城かにゃむの家しかないので、すぐ見つかった。選んだのは前者。さつきの部屋で、迎えに来た両親の声を聞いていた。 「ごめんね、祥子ちゃん、初音ちゃん。私のせいなの。ごめんね」そよは泣いていた。 「ううん、私が悪い。ごめんなさい」睦は泣いていない。 「気にしないで。ほらそよ、しゃんとなさい。お母さんでしょ?」 「家出は…よくあることだよ。大丈夫」 家に帰らされた後は、両親が燐音をどれだけ愛しているかを懇々と説かれた。その時もそよは泣いていたし、睦は泣いていなかった。 「意味わかんないよね!睦ちゃんもそよママも。大体なんで娘の私におっかなびっくりって感じ!?」 「…またしょーもないこと言ってるなら、帰りな」ドラムを準備していたにゃむが顔を上げる。ここは祐天寺邸。燐音の溜まり場。 「あ、うん、にゃむち、ドラムやろ!」 睦は燐音に「好きな人やものをたくさん作ること」という教訓を与えた。少ないものに寄りかかるのは危うく、命に関わるとかなんとか。しかし訓告は失敗し、燐音はふたつの特別に執着した。 燐音の特別、そのひとつはドラムだった。燐音がおかしいからか、家族がおかしいからか、長崎家は家族ぐるみの付き合いを殆どしなかった。その代わりに、燐音はにゃむに出会った。 「あたし、あんたの親のせいで行き遅れたようなもんだからね」 「知らないよー。イーだ」 「…あんたやっぱ似過ぎ」 「何に?」 「…むーこに。見た目じゃ、区別つかないよ」 そんなにゃむの、嘘偽りの無いビートは、燐音には心地よかった。親との間にはない、抜き身の触れ合いに憧れた。いつか自分もそうなりたいと願った。 「芝居じゃ前に睦、ドラムじゃ後ろにこいつ。星の廻りが悪かかね…」にゃむはよく、こうぼやいていた。 燐音の特別、もうひとつ。それとの出会いは幼い時分、ドラムとの出会いの少し後である。母である睦と"ゴシックメタルの貴婦人"祥子の関係は特別なものであるらしく、一度娘を交えて会う機会があった。 「あ、貴女が睦の…ご、ごきげんよう」 「こ、こんにちは、燐音ちゃん…」 豊川婦妻は燐音に怯えているようだった。きっと自分が怪物だからだと思った。その後、祥子と睦が何かを話していたが、燐音がそれを聞くことはなかった。それよりも重要な出会いが発生したからである。 「ごきげんよう。ぼくは、さつきです」 「こんにちは。私、燐音。」 「…指の絆創膏、大丈夫?」 「え?あ、大丈夫だよ。多分ドラム叩いた時の」 「わぁ、ドラム、すごく頑張ったんですね。ぼくも、音楽が大好きなんです。是非今度聴かせてくださいね」 この少し歳上の少女は、睦と瓜二つの顔ではなく、傷ついた指を見ていたのだ。驚き、知った。昼間でも輝く月があることを。燐音はこの日、怪物ではなく人間だった。 「にゃむち!友達連れてきた!」 「ハァ?あんたさぁ…て、うわ!さきこの娘!」 「はじめまして、ごきげんよう」 「あたしって呪われてるわけ?」 広く感じる長崎家だが、そよの強い希望で食事は3人揃って食べることが多かった。他にも3人で遊んだ記憶は多く、それなりに幸せな所以だった。 「燐音ちゃん、美味しい?」 「ン、美味しいよ」 「良かった。家で採れたお野菜だから」 「私が、採った」睦は鼻息荒く、自慢げだった。 そよは、時に慈愛で、時に叱咤で燐音を導く、良き母であった。しかしそよには極稀に、自分ではない誰かを見ているような時があった。しかも他ならぬそよ自身がそのたびに傷ついているようだった。 一方で睦は、実直に燐音を可愛がったが、全く母という感じはせず、むしろ姉妹のようだった。しかも家では、外の姿からは想像できないほどに不器用だった。一度不躾にも「なんで?」と聞いたら「大切な人にはギターの私」と言っていた。意味不明だった。 「私は、明日も晩まで仕事。そよは?」 「何にもないよ。買い物には行こうかな。燐音ちゃんは?」 「放課後にゃむちのところ行くね」 そよは最初「祐天寺さんと呼びなさい」と言っていたが「睦ママと呼びなさい」とはついぞ言わなかった。だから家では、まるでそよがふたりの娘を育てているようだった。 「ごきげんよう。今日はお友達を連れてきました」 「あたしの家、託児所じゃないんだけど」 祐天寺邸。台本を読むにゃむ。スティックを回す燐音。そこにふたりの訪問者。 3人の少女が初めて出会った。さつき、燐音、望海。望海は燐音の予想外の小ささに驚いた。 「燐音さん。こちら、望海さん」 「よ、よろしくね?燐音、ちゃん」 「…よろしくね望海ちゃん」 「実はぼくたち、バンドを組もうとしているんです」 「さつきちゃんがその子と?」 「はい。それで、燐音さんも一緒にどうかと思いまして」 「ふーん。その子はなにやるの?」 「私は、キーボード。多分さつきほどじゃないけど、一緒に頑張りたいな」 「ふーーん」燐音はじっと望海の目を見つめていた。このとき望海は、燐音の怪物性を知らなかった。やがて燐音は「良いよ!一緒にやろ!」と言うと、望海に近づいて耳元で囁いた。 「さつきちゃんが誰のものか、教えてあげる」 燐音の真の怪物性。それは両親の本当の心に触れようと足掻く中で生まれた、狂的な読心だった。燐音のワガママが、特別を手放さない。さつきは手を合わせて喜んでいたが、顔を見てしまった望海は凍りついていた。 「そよママ、睦ちゃん。私バンドやるよ」 そよが固まった。睦も固まった。晩ご飯のズッキーニも固まった。一緒全てが固まった。 「いいね」睦が口火を切った。「続けられるだけ、続けるといい」 「睦ちゃん、その言い方はどうかな〜?」そよも言った。「でも、バンドは良いと思うよ。喧嘩はしないようにね?お友達は大切にね?」 「わかってるよー」 「楽しんでやるのが一番。できなかったら、そよに相談」 「わかってるってば。別に、楽しくなかったら辞めちゃえばいいでしょ?」 燐音が言うと、ふたりともほんの僅かに目を伏せた。 「…もしそうなっても、みんなが悲しまないようにしてあげてね」 そよにそう言われて、さつきの悲しむ顔を思い浮かべた。確かにそれは嫌かも。でも、あの望海とかいう奴がベソベソ泣くのは、ちょっと見たい。 「そよ。燐音がまた悪いこと考えてる」 「燐音ちゃん、わかってる?人を傷つけたら、自分が傷つくことになるんだよ?」 「わかってますよー。イーだ」 言われるのは、わかってることばかり。わからないのは、その本心。私って一体誰なの?睦はそ知らぬ顔で、そよにおかわりを頼んでいた。