1 それはまるで、誰かが想像の中で描いた終末そのものだった。 宙に空いた巨大な穴。 その深淵から降り注ぐ雷は大地を貫き、吹き荒れる風は万物を巻き上げ、 まるで空から死を撒き散らすかのようだ。 ――天も地も何もかもが、ただ無情に壊れていく。 『助けて』 『死にたくない』 『どうしてこんなことに』 『嫌だ嫌だ』 『誰か…!』 終わりゆく真っ赤な世界。 そんな地獄で嘆き狂う誰かの悲鳴を、 上野聖心はどこか遠くのことのように聞いていた。 「…こふっ」 口元から、ドロリと落ちた赤黒い液体が地面に溶けていく。 明滅する視界。 それをゆっくり下ろしていけば、 全身をコンクリートにめり込ませた無様な肢体が映り込んでくる。 (……まるで、潰れたカエルみたい) そんな他人事のような感想を抱きながら、 聖心は死に体である自身の身体を見下ろしていた。 (どうして……どうしてこんなことになったんだっけ?) ――頭が、ひどく重い。 思考が上手く働かず、眼路は再び虚空をさまよう。 視界いっぱいに広がるの赫色の空。 それは波紋のように揺らめいたかと思うと、 次第に霞がかかったようにぼやけていった。 意識の端に霧が立ち込め、 現実が少しずつ遠ざかっていく感覚。 聖心の世界が、薄紙のように剥がれ落ちていく。 あやふやにこびり付いた意識は、落ちて堕ちて墜ちていきーー 代わりに頭の奥底から、散り散りになった記憶の欠片が浮かび上がり始めていった。 2 そう、確か、全てはこの一言から始まったのだ。 「見てみて聖心!今日、渋谷では【はろうぃん】なんだって!」 10月31日午前11時。 快活な声で、少し遅めの朝食の静けさを破ったそのデジモン、シスタモンブランはソファから身を乗り出し、小さな体を画面に向けた。 聖心がその輝く瞳の先――最近思わぬ収入から、ブランにせがまれ新調した75インチの大型テレビだ――に目をやると、画面にはニュースキャスターが映し出されている。 背後に広がるのは、カラフルな仮装に包まれた若者たちで溢れかえる渋谷のスクランブル交差点だった。 『こちら渋谷のスクランブル交差点です。今日はハロウィン当日ということで、例年以上の盛り上がりを見せています!』 画面の中では、スケルトンの衣装に身を包んだ集団が陽気に踊り、魔女の帽子をかぶった女性たちが笑い合っている。 その様子が、もはや祭典を超えて暴動のような喧囂と共に大型テレビのスピーカーから部屋中に広がった。 『夜にはさらに多くの人が集まる見込みです。ぜひ安全に楽しんでいただきたいですね――では次のニュースです。』 キャスターがそう締めくくると、映像が切り替わる。 その光景に一瞬だけ視線を留めた後、小さく溜息をして聖心は再び食事へ戻り――戻ろうとして、身構えた。 もう半年以上の付き合いだ。 となれば、こうなったブランが次にどのような行動、言動をとるのか、流石の聖心も心得てくる。 すなわち……そう、目の前の少女はその大きな瞳を爛々と煌めかせこう言うのだ。 「だからね、今夜はみんなで一緒に――」 「行かないっすからね」 その輝きを瞬時に遮って、聖心は低く冷たい声で言い放った。 (冗談じゃない!あんなところ…) 渋谷のハロウィン。 聖心からすればそれは、何か勘違いした陽キャ系どもが羽虫のごとく集まり、はっちゃけて踊り騒ぐ地獄のような狂宴だ。 当然、自他共に認めるヒキニートな彼女にとってそんなイベントはアンタッチャブル以外の何事でもない。 つまりはこのブランのおねだりは断固拒否、負けられないエクストリームなジハードなのだった。 「むー!なんでなんで!テレビで見てもみんな楽しそうだよ!行こうよ!聖心!」 一刀両断されても懲りないめげない、そんないつも通りの天真爛漫な声に聖心はもう一つ息を吐く。 この調子では簡単には引き下がらないのだろう、と。 ここは適当な理由をでっち上げて納得させるしかない――。 「仕方ないっすね……」 聖心はそう小さくうそぶくと、ブランに目線を合わせる。 そして真顔で厳かに物語った。 「ブラン、実は、渋谷のハロウィンはデジモン出禁なんすよ」 「ええっ?嘘だ?!」 無論、嘘だった。 横で静かに食事をしていたもう一人――眠良瀬ミコトからの視線がすごいことになっているが、聖心は気にしない、否、必死に気づかないふりをする。 この16歳の少女が教会に居候することになって早一月半程。 この間、聖心は彼女に舌戦において勝てた試しがとんとなかった。 付け加えるなら彼女のアプリには眠れない夜の快眠で大変お世話になっているし、 上野家の人とも思えぬ食生活事情を目にして、まだ若干の拙さを残しながらもこうして手作りの温かな朝食をつくってくれているのも彼女である。 要するに、仮にも家長の立場にいる聖心だが、このミコトには全くもって頭が上がらないのであった。 閑話休題。 (今だけはどうか見逃してくださいカミサマミコト様…!) そう心で念じながら、聖心は言葉を重ねた。 「嘘じゃないっすよ。デジモンはみんな出禁っす」 「なんでなんで!」 「そりゃあ、もしでっかいデジモンがあんな街中に来たら収拾つかないっすからね。当然の対処っす。ブランも分かるっすよね?」 「むー……」 予想通りの反応に対し、聖心は淡々と答えていく。 ブランがぷくりと頬を膨らませて黙り込む様子に、チクリと微かな罪悪感の針が胸に刺さる。 それでもこれで解決だ、とほっと息をつきかけたその時だった。 「じゃあ、私がデジモンじゃなくなればいいんだね!」 ――静寂。 このブランの突然の提案に、聖心は一瞬思考が止まった。 「……は?何言ってるんすか?」 聞き返す間もなく、少女は突然立ち上がる。 「ちょっと待ってて!」 「あ、ちょ、ブラン!待つのはそっち――」 焦って呼び止める間もなく、ブランはバタバタと家の奥へと駆け込んでいく。 聖心が呆気にとられたのも束の間、我に返って追いかけようと腰を浮かした瞬間、彼女は戻ってきた。 「…じゃーん!どうどう聖心!似合う?」 そんな言葉と共にリビングに現れた姿を見て――聖心の時間は今度こそ凍り付く。 ブランは純白のワンピースを身に纏い、無邪気な笑顔を見せていた。 柔らかくふんわりと広がるスカート、肩から垂れたレースのショール、小花の刺繍が胸元に美しく施されている。 第三者からみれば、十中八九は微笑ましく、可愛らしいと答えてくれただろう。 それくらいには十分、ブランによく似合っていた。 「――――」 しかし、聖心にとってその装いはまた特別な意味を持つ。 手を伸ばせば消えてしまいそうなほど幻想的で、心の奥をかき乱すような美しさをもつそれは―― 『どうかな?聖心ちゃん。似合ってる?』 脳裏で、封じ込めた記憶がはっきりと呼び起こされる。 ブランではない――かつての安里結愛が、同じ顔、同じ真っ白なワンピース姿で笑顔を浮かべていた。 過去と現在の光景が、重なる。 「ねぇ聖心!これで私も人間に見えるかな?すごく可愛いでしょ!押入れで見つけたんだよ!」 ブランは楽しそうに語りかけてくる。 しかし、聖心にはもはやその言葉を聞き取る余裕すらなかった。 胸の奥で、止めどなく膨れ上がる後悔と悲しみの塊に押しつぶされそうになる。 「……すぐに着替えるっす」 そうしてようやく絞り出した声は、聖心が自分で驚くほどひどく冷たく―― 「え、でも……」 「着替えて!今すぐ!」 溢れ出る胸の内の情動を勢いのまま吐き出すことは、堰き止めるよりも遥かに容易いことだった。 「――あっ」 その零れるようにでた言葉はどちらのものだったか。 そこでやっと、聖心はブランが自分を見上げ、ひどく怯えた顔をしていることに気がついた。 「ち、ちが……ごめんす。ここまで言うつもりじゃ…!」 咄嗟に口から出た言葉は、現状を繕うためにはあまりにも拙くて。 「……そんなに嫌なら、もういいもん!聖心なんか知らない!」 その両の眼に今にも溢れそうな涙を堪え、ブランはドタドタと音を立てて部屋を駆け出していく。 取り残された静寂の中で、聖心は足元に視線を落としたまま動けなかった。 「いいんですか?」 不意に響いたのは、これまで黙っていたミコトの声だった。 静かで、それでも刺すように鋭い声。 「……それは」 口が動いたが、言葉にならない。 良くはない。 良いわけがない。 聖心にだってそんなことは分かっているのだ。 分かっているからこそ、何とかしなければならないのにその“何か”が出てこない。 どうすればいいのか。何をすれば償えるのか。 答えを出そうとするたびに、頭の中は重く濁り、思考は手応えのない霧の中をもがく。 思い出すのは過去ばかりだ。 守れなかった親友への後悔。 信頼してくれていたブランに、理不尽にぶつけてしまった苛立ち。 どれもこれも、自分の未熟さと弱さの生んだものだ。 聖心の20年間はただひたすらそんな悔恨で埋め尽くされている。 (……成程、答えなんて出てくるはずもない訳だ) どんなに記憶をひっくり返しても中身なんて何もない、虚無。 それが聖心の人生だった。 (……でも) ――それでも、どんなに後悔したって時間は止まってくれないことだけは知っていたから。 「……」 しばらくの沈黙のあと、聖心は立ち上がる。 上野聖心は意気地なしのろくでなしだ。 きっと今すぐ、ブランを追いかけて声をかけに行くべきなのだろう。 しかし、もう齢も30の大台に乗る間近だというのに、聖心にはこういった場面、彼女へどのように声をかけに行けばいいのかとんと見当がつかない。 自分でも呆れるほどの、本当にダメダメのダメ人間だ。 しかし、そんなダメ人間だからこそ―― 「せめて、誠意は見せるべきっすよね」 埃をかぶったポーチと財布を、危うげに手に掴む。 そして、聖心は独りごちるように呟いて玄関へと向かった。 「ミコトちゃん、ウチはちょっと大事な用ができたから出かけてくるっす。おやつの時間までには帰るっすから」 背後では心底呆れたといった風情の大きな溜息がつかれた気がしたが、両耳をふさぎ全力で聞こえなかったことにする。 「……ブランのこと、よろしく頼むっす」 そう一言だけ告げると、聖心は一歩、外の世界へと踏み出した。 3. 「……さぶっ!」 玄関を閉めた瞬間、まとわりつく冷えた空気が聖心の肌を刺した。 硬くなった指先をポケットに突っ込み、彼女は肩をすくめるように小さく震えながら一歩を踏み出す。 振り返り、鍵を閉めた音が静まり返った通りに小さく響いた。 (ここまで冷えるのなら、それを理由に断ればよかったな……なんて) こんな寒空の下、あのワンピース一枚で歩き回るのは流石のブランにもキツかったに違いない。 などと、聖心は思いを馳せてみる。 しかし悲しいかな、生粋の引きニートである聖心には、あの時これほどの寒さを想像する教養は備わっていなかったのだ。 (……今度からせめて天気予報くらいは真面目に見よう。) つまりはこれもまた、自身の怠惰な日々が招いた産物。 また一つ、新たな教訓を胸に刻む。 そんな与太にもならない、現実逃避とも言うべき思考を連ねながら、聖心は歩を進めていく。 記憶の中の地図を元に、4車線あるメインの大通りを直進し、信号を1本超えて左折。 そそくさと細い裏路地へと入る。 目的地までの近道であり、何より人通りが少ないこの道。 つまりは、聖心にとって心地よいルートだ。 「……うわぁ」 角を曲がって直ぐに飛び込んできた景色に、聖心は思わず感嘆の息が漏れた。 眼下には黄金色に輝くイチョウの葉が、道路一面に敷き詰められていた。 まるで絨毯のように続くその光景が、ひっそりとした路地に暖かな色彩を添えている。 それは誰もが息をのむ絶景というわけではない。 ただ日常を過ごす中で、ちょっとだけ他より目が引かれるような、そんな光景で―― 「……昔を思い出すっすね」 小さく漏れた言葉とともに、聖心の脳裏に過去の情景が鮮やかに浮かび上がる。 それは、デジタルワールドでのかつての冒険の一幕。 「そう、あれは結愛ちゃんと二人で始まりの街に…」 追憶に浸りかけたところで、聖心はふと我に返った。 (……それで思い出すのが、20年前のことなのか? ウチは) 分かってたつもりの自らの出不精さに、少し愕然とした。 最近でこそ、ブランのおかげで聖心が共に外へ連れ出される機会は増えた。 しかし一人きり、臆面なくこうやって外に出るのは、本当に久しぶりだったのだ。 (……ブラン) 結局、必死に逃げ隠れしていたはずの思考は振り出しへと戻っていく。 足元で枯れ葉がカサリと音を立てる。 聖心の歩みは、いつの間にか止まっていた。 (ウチの方から……ちゃんと謝らないと) あの時のブランの泣き顔が心に突き刺さる。 その記憶を思い出すたび、胸の奥がひどく揺さぶられた。 彼女のために自分に何ができるのか――聖心は改めて考え込む。 当初の目的である渋谷のハロウィンに行かせてあげられれば、とも思った。 しかし、それはあまりに聖心にとって高いハードルだった。 (それに……) それに、自分たちの問題はもはやそこにない気がしたのだ。 ともかく、ブランに機嫌を少しでも直してもらうためにプレゼントを用意しよう―― そんな姑息な思いつきだけで家を飛び出したのだが、結局それ以上の計画は何も考えられていない。 「ウチはどうしたいんすかね……わっ!」 考え事に気を取られたせいか、足元の枯れ葉に足をすべらせバランスを崩す。 視界が天地逆さまになり、気づいたときには澄み切った秋の空と、はらはらと舞い落ちる黄金色を見上げていた。 (ほんとウチって……情けない) 背に地面の冷たさがじんと染み込み、落ち葉の感触が絡みつく。 聖心の大きく吐いた溜息は、初冬の空に小さく溶け込んでいった。 4. 人目を避け、枯れ葉が舞う静かな裏路地を抜けると、徐々に商店街の喧騒が聖心の耳に届き始めた。 遠くから響く笑い声や、ハロウィンらしい音楽が微かに混じる。 その賑わいが近づくにつれ、聖心の胸は落ち着かなくなる。 引きこもりにとって、多くの人が集まる場所はそれだけで不安の種なのだ。 おっかなびっくりと装飾されたアーチの下をくぐると、目の前に広がったのは、カラフルなリボンやカボチャのランタンが通りを飾るハロウィン一色の景色だった。 魔女や吸血鬼の仮装をした子どもたちが行き交い、大人たちもそれに付き添って笑顔を見せている。 テレビで見た渋谷の喧騒には及ばないものの、商店街は平日にもかかわらず十分な人出を見せていた。 (やっぱり、悪目立ちしてる気がする……) 聖心は背を丸めたまま、静かに周囲を見回す。 今、彼女自身を客観的に見るならば――そう。 『怪異、シスター服のアラサー猫背女。身体中に枯れ葉を纏わせ商店街に現る。見かけた方は至急110番を。』 こんな感じである。 とたんに道行く人々の眼がひどく重く感じられて、聖心は全身にまとわりついていた枯れ葉を急いで払い落とした。 (……通報される前に、さっさと用事を済まそう…っ!?) そう思いながら足早に歩き出した矢先、早速視線を感じる。 恐る恐る見返せば、その主は小さな女の子。 少女は母親の手を引かれながらもじっとこちらを見つめ、くすっと笑うと、こう言った。 「ママ、あのおばさんも変わった服着てる!何の仮装かな?」 突然の無邪気な言葉が聖心の胸を容赦なく抉る。 母親は気まずそうに会釈し、「きっとシスターさんね~」と軽く流したものの、その声すら聖心の耳には遠く感じられた。 (仮装でもないのに……ウチ、おばさん……おばさんかぁ) じわりと広がる虚無感をため息と共に吐き出し、縮こまるようにして聖心は歩みを進めるのだった。 *** そんなこんなで、人混みのざわめきを周囲に感じつつ視線を避けるように避けるように、当然の帰結として彼女は脇道へとそれていく。 そうして行き着いたのは、路地裏突き当たりにひっそりと佇む謎の老舗だった。 何の店かも分からない、看板すらない無愛想な外観。 戸には「営業中」と小さく札がかかっているが、覗き込んでも中は見渡せず、人を寄せつけない妖しげな雰囲気をまとっている。 (怪しい……めちゃくちゃ怪しいけど……もう限界!) じろじろと見られるくらいなら、怪しい店の一つや二つどうでもいい。 ともかく少しでも人目を避けられれば、それで十分だった。 聖心は小さく息を整え、意を決して扉を押す。 「いらっしゃいませ~」 扉に取り付けられた鈴がチリンと鳴り、女性の明るい声が響いた。 聖心はその声に少し身をすくめながら店内に足を踏み入れる。 奥に広がる小さな空間は、無骨な外観に反してファンシーな雑貨屋のようだった。 「わぁ……」 思わず感嘆の声が漏れ出る。 壁沿いに並ぶ棚にはカラフルなアクセサリーや小物がぎっしり詰まり、所狭しと飾られたハロウィンモチーフの飾りが視界に飛び込んでくる。 (ちょっと面食らっちゃったけど、ここなら……) ブランへの良いプレゼントが見つかるかもしれない。 そんな淡い期待を抱いて聖心は商品棚を見渡していく。 すると、ふと視線の先に、見覚えのある黒と白のうさぎを模した一組の髪飾りが目に留まった。 「これ……」 思わず手で前髪に触れる。 感じる冷たい金属の触感は、かつて聖心が『彼女』と分かち合っていたその存在を確かに伝えてきた。 (……そっくりだ) 『うん、やっぱり聖心ちゃんには白が映えるね!じゃあわたしは……』 いつかの幻聴と共に、視線が髪飾りに引き寄せられていく。 空いているもう片方の手で、それを掴もうとして―― 『――聖心!』 (……ばか、違うでしょウチ。) しかし、すぐに振り払うように聖心は顔を背けた。 (こんなもの、間違ったってブランに贈るものじゃない) 心の中で自分にそう言い聞かせ、別の棚に目を移す。 ――彼女は彼女。ブランはブランだ。 そこを二度も履き違えるような恥知らずではいたくなかった。 結局数十分悩んだ末、聖心が見つけ出したのは小さなブローチだった。 月の形をしたシンプルなデザインに、星のモチーフが添えられている。 優しい金色の輝きが、爛々と輝くブランの瞳と重なって見えた。 「……これなら」 聖心はそっとそのブローチに手を伸ばす。 その淡い光沢が、不安で揺れる心を少しだけ和らげてくれた気がした。 (うん、これがいい) そう決断し、カウンターへと向かう。 ブローチの値段は手頃だった。 聞けばラッピングも可愛らしい袋に包んでくれるとのことらしい。 「プレゼントですか?」 店員の問いかけに聖心は一瞬戸惑ったが、ぎこちなく微笑みながら軽く頷いた。 「そ、そうです、その……大事な人に」 最後の方は声が小さくなり、店員が聞き取れたかどうかも怪しい。 けれど、彼女は気を遣った様子で微笑み、綺麗にラッピングされたブローチを手渡してくれた。 会計を済まし、小さな袋とお釣りをそっと受け取ると、聖心はほんのわずかに安堵の息をつく。 その時だった。 外から聞こえてくるざわめきが、いつもの商店街の喧騒とは違う異質なものに変わり始めた。 最初は小さなざわめきが、次第に緊張感のある声や、何かが壊れる音へと変わっていく。 「……何すか?」 思わず正面の店員と目を見合わせるが、彼女の顔にも困惑の表情が浮かんでいる。 少なくとも聖心のあずかり知らぬ商店街のイベント、という線は消えた。 ――嫌な予感がする。 不穏な気配を察知した聖心は、受け取った袋をきゅっと握り、足早に扉を開け放つ。 「なっ……」 雑貨屋の外に出た途端、飛び込んできた景色に聖心の足が止まる。 外に広がっていたのは、白濁した霧に飲み込まれた商店街の姿だった。 (この霧……) 濡れた空気が肌にまとわりつき、心臓の鼓動がわずかに速まる。 聖心は知っている。 この霧は過去に何度か目にした現象――デジモンのリアライズ、その前兆だ。 だが、これ程まで広範囲で濃密な霧を彼女は見たことがなかった。 雑踏のざわめきは、いつのまにか消えていた。 ――代わりに、霧の向こうから微かに届く音がある。 最初は足音とも衣擦れともつかない、不明瞭な気配だった。 しかしその音は、次第に確実な存在感を持ちはじめる。 人ではない何かが、霧の中を徘徊している。そう思わせるに足る、重い足取り。 警戒心が胸を締めつける。 聖心は思わず息を呑んだ――その瞬間、建物を砕く破砕音が鋭く響いた。 ゴォン、と鈍く重い風切り。 霧を真っ二つに裂いて現れたのは、鞭のようにしなる黒い何か。 それが店舗のガラスを叩き割り、衝撃波が周囲の空気を大きく揺らした。 「……!」 直感で飛び退く。反射的な動きで距離を取った聖心は、霧の幕越しにそれを見上げた。 白いカーテンのような霧に、黒い影が浮かび上がる。 ゆっくりと輪郭を結びながら現れたのは――黒く巨大な躯体。 鋭利な尾を持ち、全身から禍々しさを滲ませた異形の存在。 その名は、デジタルモンスター。 けれど、その瞳は生きていなかった。 知性の灯も、感情の熱もない。 ただ、冷たく虚ろな光だけが、ぼんやりと宿ってる。 動きもどこかぎこちなく、まるで誰かに操られるかのよう。 糸で吊るされた人形。 そんな印象さえ抱かせる、不気味さだった。 (こいつら、一体――) その異様さに目を奪われたのも束の間だった。   足元から響く震動が連鎖し、硬い地面が次々にひび割れていく。 砕けるコンクリートの音が四方から響き渡った。 咄嗟に視線を巡らせた聖心の目に、次々と霧を割って現れる影だけが映る。 霧が、わずかに晴れた。 一瞬だけ開けた視界。 その隙間から、商店街全体の様子が見えた。 「……嘘っすよね?」 破壊された店舗は壁が抉れ、シャッターは外側から捻じ曲げられている。 砕けたガラスは舗道一面に散乱し、赤や青のネオンは無残に明滅していた。 叫び声が飛び交い、人々が四方に逃げ惑う。 足音、悲鳴、警報。全てが混ざり合い、耳を圧迫するような喧騒が木霊し―― その全てを、リアライズしたデジモンたちが踏みつぶしている。 さっきまで平和だったはずの商店街は、たった数分で地獄の見本市に変わっていた。 (どういうこと? これほど大規模な範囲のリアライズ……しかもこんな一斉に……) 眉を寄せ、拳を強く握りしめる。 通常、デジモンのリアライズは限定的で、一度に現れる数も少ない。 それが、聖心の常識だった。 しかし今、目の前では数え切れないほどのデジモンが一斉に現れ、街を蹂躙している。 (考えている場合じゃない。早く逃げないとっ) そう、商店街の入口を目指し、踵を返そうとして―― 霧の向こうから聞こえた声に、聖心は足を止めた。 「助けて!誰か!」 切迫した叫び声が耳を打つ。 聖心が振り返れば、今にも瓦礫に埋もれそうな建物。 そのすぐ近くに人影が見えた。逃げ遅れた人々だ。 思わずあたりを見渡した。 誰か、誰かいないか。 人間でもデジモンでもいい。 あの声に応えてくれる、この状況を助けてくれる、ヒーローのような存在は―― その登場を聖心は切実に待ち望む。 しかし、今、この場にはそんな人物は存在しない。 存在しなかったのだ。聖心以外には。 「……」 ラッピングされた袋をポケットに押し込み、聖心は拳を握りしめる。 (誰もいない…… 誰もいないのなら、仕方ない) 大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。 上野聖心はそうしていつもの怯えた気持ちをひた隠し、なけなしの勇気を燃やすのだ。 その指先には、白い光が淡く灯り始めていた。 (……助けなきゃ。今、動けるのはウチだけなんだから) 聖心は震える呼吸を整え、足を一歩踏み出す。 ――混乱の渦中へと彼女は踵を返していく。 だがその後ろ、闇の奥底から這い出すように、昏く澱んだ影が静かに、でも確かに迫ってきていた。 5. ブランは聖心の部屋で、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめていた。 頬を膨らませ、何度目か分からない小さなため息をつく。 その表情は、不機嫌を隠す気などさらさらない。 (あんなこと言わなくてもいいじゃない……) 胸の奥がずきずきと痛む。 白いワンピースを着て現れた自分に向けられた聖心の言葉は、冷たく刺さった。 とっても、とーってもショックだった。 しかし、今はそれ以上に焼き付くような悔しさが、彼女の心をかき乱している。 (わたしは、ただ『わたし』を見てほしかっただけなのに) 押し入れで見つけたワンピース―― そのデザインは、机の上でいつも倒されている写真立て、そこに写る少女と重なる。 ブランはその写真の少女、安里結愛のことを詳しくは知らない。 ただ、聖心にとって特別だったこと、過去に手が届かないどこか遠くへといってしまったこと、 そして自分は不本意なことに、どうやらその彼女に瓜二つであるということ――それくらいは、言葉にされずとも察している。 けれど、だからこそだった。 (どうして聖心は、そんなやつのことばかり気にしてるの?) 写真立てに収められた笑顔。 それを見つめるたびに、ブランの胸にはもやもやとイライラが湧く。 聖心が抱えている罪悪感も、自分のことを見てくれない理由も、きっと結愛にある。 聖心を置いて勝手にいってしまったくせに―― 彼女は、今でも聖心をこんなにも苦しめているのだ。 (わたしは……聖心を置いていかないよ) 胸に押し込めていた想いが、噴き出しそうになる。 あの時白いワンピースを着たのは、そんな気持ちの表れだった。 自分がここにいることを、もっと見てほしかった。 確かに、聖心が多少辛辣な態度を取るかもしれないとは予想していた。 しかし、あんな冷たい言葉を浴びせられるなんて――。 「……もう、聖心なんか知らないもん」 ぽつりとこぼれた言葉は、少し震えていた。 ぬいぐるみをさらに強く抱きしめる。けれど、涙はこぼさない。 泣くもんか、と自分に言い聞かせる。 そんな時、扉をノックする音が聞こえた。 「……だれ? 聖心なら入れてなんか――」 「私です」 落ち着いた声が返ってきた。ミコトだ。 ブランは一瞬黙り込み、わざとつっけんどんな態度を取る。 「ミコト……なんの用?」 ミコトがそっと扉を開ける。 手には小さなトレイがあり、その上に湯気を立てるマグカップが載っていた。 ミコトはブランの目線に合わせてしゃがみ、カップを差し出す。 「ホットミルクです。よかったら、どうぞ。少し落ち着きませんか?」 ブランはカップにちらりと目をやるが、すぐにそっぽを向く。 「いらない。聖心が頼んだの?」 「いいえ、頼まれていません。聖心さんは今、外出しています」 「……外に?」 思わず顔を上げると、ミコトは静かに頷いた。 「あなたのために、何かを買いに行ったみたいです。商店街の方に向かったのではないでしょうか」 「……商店街」 ブランの胸がちくりと痛む。 あれほど家から出たがらない聖心が、自分のために一人外へ出た。 それも人が多く集まるであろう商店街に――その事実が胸に重くのしかかった。 「……でも、あんな言い方ってないよ」 「それはそうかもしれません。 でも、聖心さんもブランさんに悪いと思っているから、行動で示そうとしたのでしょう」 努めて客観的に語るミコトに、ブランは何も言い返せなかった。 カップを受け取り、抱え込むようにして、ただ俯く。 水面に反射する自分の顔は今にも泣き出しそうにみえた。 「……ブランさん。少し聞いてもらえますか?」 目を上げると、ミコトの真剣な瞳が正面からブランを見つめていた。 「別れというものは――平等で、そして突然に、誰にでも訪れるものです」 ミコトは静かに、淡々と語りはじめる。 「ブランさんだって、もしかしたら明日、あるいは今すぐにでも、大切な人に二度と会えなくなる時が来るかもしれません」 そこまで言い終えたあと、一拍だけ。 ミコトは内に溜めていた熱を逃すように息を吸い込み、吐き出し、そして再び落ち着いた調子で語り直した。 「……要するに、ですね。そんな時に後悔するような別れ方をしちゃいけないと、私は思うのです」 ――語り口はやわらかく、けれどその声には、消せない痛みのようなものが宿っていたような気がする。 ブランはこの教会に来る以前のミコトの過去を知らない。 それでも、その言葉には確かな“真実”の重みがあった。 二度と会えない。 ブランの頭に浮かんだのは、聖心の伏せられた写真立て、その中の笑顔の二人だ。 ――聖心にあの笑顔が戻ることは、きっと二度とない。 安里結愛がどんなに最低な奴だったとしても、その事実は変わらないのだろう。 二度と会えなくなるというのは、きっとそういうことなのだ。 「……そんなの、嫌だよ」 ブランは小さく呟く。 「そうですよね。だからこそ、今は素直になりましょう。 聖心さんだってきっと、あなたと仲直りがしたいと思っているはずです」 ミコトの言葉は、胸の奥にこびりついていた冷たい塊を、少しだけ溶かしてくれた気がした。 「わたし……」 言葉を紡ぎかけたそのとき、1階のリビングからテレビの音が聞こえた。 ニュース速報の電子音が鋭く耳を打つ。 「……なに?」 ブランはカップを置き、ミコトと顔を見合わせた。 二人で足早に階段を降り、1階のリビングに向かう。 画面に映し出されていたのは、霧に包まれる商店街の映像だった。 『商店街一帯が突如濃い霧に覆われています。現場では――』 その映像の奥、霧の向こうで黒い影が蠢いているのを、ブランは見逃さなかった。 「これ……商店街って……!」 ブランは跳ねるように立ち上がり、ミコトの静止も振り切って玄関へと走り出す。 「聖心!」 叫びと共に、ブランは外の冷たい空気に飛び込んだ。 「待って!ブランさん!」 ミコトが手を伸ばしたが、その背を止めることはできなかった。 6. 電子の霧は、商店街全体をゆっくりと侵食していた。 最初はただ冷たいだけの白い靄だったそれは、今や人々の視界を奪い、足元を惑わせる厚さにまで変貌している。 その中を、小さな少女が必死に駆けていた。 「誰か……誰かいないの!?」 泣き出しそうな声が霧に木霊する。 だがその残響も、白の中に飲み込まれるようにかき消えていく。 「はっ…はっ…………ひうっ」 少女が振り返れば、霧の向こうにぼんやりと浮かび上がる巨大な影。 その無機質に輝く瞳は、ただ彼女を追い、害する――そんな意志だけが宿っているように見えた。 「きゃぁっ……!」 ――生まれて初めて向けられた純粋な殺意。 気圧された少女の足が瓦礫に絡め取られ、小さな体が宙を舞った。 「い゛っ…づぅ……」 硬い地面に叩きつけられ、アスファルトの上を擦られるように転がる。 足を痛めたのか、立ち上がることもままならない中、それでも少女は己が手だけで必死に前へと這い進む。 しかし。背後からの足音は止まらない。 死の気配はすぐ真後ろまで迫ってきていた。 「やだ……やだぁ……助けて、ママ……」 か細い嘆きも虚しく、その命を散らせる一撃が少女に振り下ろされる――その時だった。 「危ないっ!」 その声は鋭く、霧を裂くように響いた。 一陣の風のように飛び込んできた黒い影が、その勢いのまま凶刃を弾き飛ばす。 シスター服を纏ったその人物――聖心は、冷徹な目で怪物を睨みつけると、振り返って少女に声をかける。 「もう、大丈夫っすよ」 その言葉は優しく、怯える心をそっと包み込むような温もりがあった。 恐怖で凍り付いていた少女の小さな体が、その温かさに溶かされたようにわずかに震えると、恐る恐る顔を上げる。 そこにいたのは見覚えのある―― 「し、シスターのおばさん……?」 「おばさんじゃなくって、お姉さんっ!」 軽くムッとしながらも、聖心は少女を抱き上げ、瓦礫の影へと避難させた。 追跡者はその間も変わらない無感情な目で彼女たちを見据え、標的を変えて聖心へと迫ってくる。 「……遅いっ!」 聖心は冷静に間合いを測ると、追跡者が振り下ろした巨大な爪を空中に大きく飛び退くことで軽々と躱す。 そして剛腕が大地に深い溝を刻むその間に、浮き上がった勢いのまま、鋭い蹴りを首元へ叩き込んだ。 白く輝くデジソウルを纏ったその一撃に、追跡者は大きく揺らぎながら後方へと倒れ込む。 「……タフっすね」 それでも立ち上がろうとする姿を前に、聖心は静かに息を整えた。 右拳にデジソウルを集めると、再び瞬時に相手との間合いを詰める。 「これで……終わりっ!」 強烈な拳が追跡者の胴体に叩き込まれた瞬間、輝く粒子が散り、追跡者は霧の中へと消えていった。 「す、すごい……!ありがとう!シスターのおばさん!」 少女の弾けるような声が商店街に木霊する。 その無邪気な一言に、聖心は瞬間的に言葉を失ったが、すぐに顔をしかめた。 「だ〜か〜ら〜、おばさんじゃなくって、お姉さんっす!」 「えー?でもおばさ――」 「それ以上言ったら、次は助けないっすよ?」 わざとらしく睨むと、少女はあの時のようにくすっと笑った。 それを見て聖心も小さく息を吐くと、彼女の頭を軽く撫でたのだった。 「とにかく、お母さんのところに行くっすよ。きっと心配してるはずだから」 *** 少女を腕に抱え、聖心は再び霧の中をひた走る。 手足の感覚は鈍り、視界は霧のせいでほとんど効かない。 それでも、現状は未だ彼女に立ち止まることを許さなかった。 (流石に……そろそろキツイ、な) この数時間余り、聖心は休む間もなく救助を続けてきた。 謎のデジモン達の襲撃から人々を守り、臨時の避難所へと導く。その繰り返しに聖心の体は限界に近い。 呼吸は荒く、腕は少女を抱える重みで痺れ始めている。 (……昔ならこのくらい、へっちゃらだったのに) そんな言い訳じみた内省が、やるせない自嘲を引き起こす。 かつての自分を知るからこそ、今の自分に対する苛立ちが募る。 ――だが、どんなにそれを思っても現状が好転するわけではないのだ。 (ああもう、集中しろ聖心!集中!) 「……んっ」 腕の中の少女が小さく身じろぎする。 怖さを堪えた小さな体で、少しでも負担をかけまいと彼女は必死にしがみついていた。 「……大丈夫っす。すぐに安全な場所に着くから、もう少しだけ耐えてね」 ――その少女の気遣いに報いなければいけない。 聖心は疲労を悟られないように努めて穏やかな声をかけた。 その言葉に、怯えの残る瞳で見上げながらも、力強く頷く。 震える指が彼女の首にしがみつき、細い体がしっかりと力を込めているのが伝わってきた。 さらに聖心は言葉を重ねようとして――それを取りやめ、表情を引き締める。 前方の霧の中で蠢く気配、それがまた増えつつあることを察したからだ。 (本当に……しつこい!) 少女を両の手にしっかり抱え、道中の霧の怪物を文字通り蹴散らしていく。 聖心は考える。 長時間の戦闘の中で、いくつか分かったこともあった。 見てきた通り、霧から現れるデジモンは本物のデジモンが持つような知性も感情も感じられない。 ただ無作為に近くの建物や人間に対して攻撃を繰り返す作り物めいた存在だった。 加えて、一定のダメージを与えれば、霧に溶けるように消えていく。 そして、その消え方は本物のデジモンが消滅する時のような「デジタマ」を残すプロセスとは明らかに違う。 『デジモンのテクスチャを被せているだけで、中身は別の存在』 それが聖心がだした結論だった。 (とはいえ……) だが、そんなことが分かったところで状況は改善しない。 なにせ次々と湧いてくるそれらを倒しても倒してもキリがないのだ。 一番の問題はこの無尽蔵に沸いてくる相手のリソースと、意図せず孤立奮闘となっているこの状況だった。 (警察は何してるの……もうとっくに到着していてもいいはずなのに) 全国のデジモンに関係する異常事態を専門に取り扱う部門、警視庁デジモン犯罪対策部隊。 通常なら表には出てこない彼らだが、こうした状況にはすぐに対応し、現場を鎮圧すると聞いている。 しかし、未だこの場に現れる気配は一向にない。 (……もしかしてこの霧が) 「お姉さん、大丈夫?」 思考に没頭していた意識が、少女の声で浮上する。 横を向けば少女の不安げな顔が聖心の視界に広がった。 「ああ、ごめんごめん。お姉さん、そんな変な顔してたっすか?」 「ううん。でも……すごい、疲れてそうで」 全然元気っ!心配無用っす! そう答えてあげたかったが、少女の気遣わしげな視線の前にぐっと喉が詰まる。 せめてもと、聖心はぎこちない笑顔を少女に向けて返した。 (こんな子にここまで心配されるなんて、よっぽどひどい顔してるんだろうなウチは……でも) まだ、心折れてはいけない。 少なくとも戦える者が自分だけであるうちは…… (……?) そんな中、聖心はふと周囲の空間が異様に静まり返ったことに気づく。 「……気配が、消えた?」 これまで確かに感じていた、デジモン達の気配が一斉に消えた。 胸にわずかな不安が過ぎる。 未だ霧が出ている以上、これで終わりなどという希望は持たない。 そして沈黙は嵐の前触れであることを、聖心はこれまでの経験で知っていた。 ――次の瞬間、視界の端で何かが蠢いた。 「なっ……!」 聖心がその方向に反応するよりも早く、目前の白濁した霧が大きく霧散する。 まるで何かに掻き消されたかのようなその意味は―― (……まずいっ!) ――死の予兆だ。 聖心は咄嗟に少女を庇い、多少乱暴にでもその小さな体を射程圏外に突き飛ばす。 瞬時に全身へデジソウルの防壁を展開し、衝撃に備え――次の瞬間、そんな小細工をあざ笑うかのような巨大な不可視の力が彼女の体を捉え、激しく吹き飛ばした。 宙を舞い、瓦礫の山に叩きつけられると共に聖心の視界が揺れる。 「……がふっ!」 激痛が全身を駆け巡る。 胸や肩に広がる痛みは鋭く、息をするだけで肺が引き裂かれるようだった。 それでも彼女は、震える少女の姿を探して目を凝らす。 「お、お姉さん……!しっかりして……!」 少女の小さな声が震えて響く。 聖心は痛みを堪えながら顔を上げ、瓦礫の間にいる少女の姿を確認すると、薄く笑みを浮かべてみせた。 「……ここにいちゃ、危ないっす……早く、逃げて……!」 聖心は掠れる声でそう伝える。 だが、少女はその場を動こうとしない。 小さな手が彼女の服を掴み、涙をぽろぽろと零しながら首を横に振った。 「やだ……!一緒に行こうよ!置いてけないよ!」 「大丈夫……それより、君まで巻き込まれたらウチが君のお母さんに顔向けできないんすよ!ほら、早く!」 少し強い口調で言い聞かせる。 少女は涙を滲ませながらも、聖心の言葉に逆らうことができず、小さく頷いて避難所の方向へと走り出した。 少女が泣きじゃくりながら走り去る足音が遠ざかると、霧に沈む商店街の静寂が一層深くなる。 聖心は自らの鼓動が痛みとともに脈打つのを感じながら、軋む体をゆっくりと起こす。 見据えるのは当然、あの不可視の衝撃波が飛んできた方向だ。 「いい加減、姿を見せたらどうっすか」 ――聖心が少女をこの場から離した理由は2つある。 一つは激しい戦闘になった時、彼女を守り切れないと思ったから。 そしてもう一つは、彼女の前で自身の胸の内の荒ぶる激情を抑えきれる自信がなかったからだ。 先ほど受けた一撃を、聖心は以前から知っている。それも嫌というほどに、だ。 そう、あれは20年前、現実世界からデジタルワールドへの次元の穴を穿った、言うなれば聖心達の長い長い旅が始まったきっかけの一撃。 (そして……結愛ちゃん達の命を奪い、ウチ達の旅に終わりを告げた一撃……『タイムデストロイヤー』) 瞼の裏には鮮明に過去の光景が蘇る。 自分たちの旅路を引き裂き、あの日、最も大切な親友と、そのパートナー達の命を奪った存在。 その記憶は、抑えようのない怒りの炎となって彼女の胸を焦がす。 「……こんなところで、また会えるとは思っていなかったっすよ」 霧が静かに動き出した。 まるで意思を持ったように、白濁した空気が裂けていく。 その中央から、巨大な影が徐々に浮かび上がる。 霧がさらに薄れてゆくと、禍々しい姿がその全容を現した。 黒と紫の1対の竜が絡みあう、腐敗した金属のような体躯、無数の裂けたような爪。 そして、二つの頭部からのぞく双眸―― その瞳は他のデジモンと同じくどこまでも冷たく無機質で、感情の欠片すら感じさせない。 それでいて、全身から放たれる圧倒的な存在感は空間そのものを歪めているようだった。 霧の中に漂っていた湿気が、一気に冷たく変わる。 その空気の変化が、敵の圧倒的な力を何よりも雄弁に物語っていた。 「――」 聖心の呼吸が浅くなる。 目の前の存在は、間違いようもなく、自身の記憶に刻まれたもの―― そう、その名は。 「なぁ――ズィードミレニアモン!!!」 7. 商店街にたどり着いた瞬間、ブランは目の前の光景に言葉を失った。 「なに、これ……」 アーチがかかった通りの入口は完全に封鎖され、警察車両と黄色い規制線が往来を塞いでいる。 その外側には、報道陣と野次馬が入り混じる人だかりが押し寄せ、怒号とフラッシュの嵐が混然一体となって異様な熱気を放っていた。 群衆たちの注目の的はただ一つ。 それは、商店街を包み込むように現れた、重く深い『霧の壁』――いや、もはや空間を隔絶するような『結界』だ。 その手前には、群衆を遮るように警察官たちがずらりと並び、誰一人として中に近づけさせまいと険しい眼差しを向けていた。 「……っ」 ブランはそんな人の壁の前で立ち尽くし、胸のあたりをぎゅっと押さえる。 ピンクのウィンプルが風に揺れ、白いシスター服が霧に溶け込むようにぼんやりと霞んでいく。 (……聖心は、絶対にこの中にいる。絶対に) 根拠なんてない。説明だってできない。 それでも、ブランの中には確かな直感があった。 (でも、これじゃあ……) 目の前で集る人、人、人。 警察官に、記者に、一般市民。 群れとなって押し合い、詰まり合い、道という道を塞いでいる。 (……このままじゃ、辿りつけない) 得体の知れない焦燥感が喉の奥を酷く締めつけ、呼吸すらままならなくなる。 (聖心っ、聖心っ、聖心……!) 胸の内で名前を繰り返す。 そんな切実な想いが溢れるように、視界がにじみ始める―― その時だった。 「何をまた、そんな世界の終わりみたいな顔してるんですか?」 ざわめく雑踏の中、どこか場違いなほどに柔らかく、玉を転がすような声が響いた。 思わず振り返った、その先にいたのは黒のウィンプルに身を包む、見知った少女の姿。 ――ブランとよく似た出で立ち。けれど快活さの中にどこか陰のある雰囲気をその身に纏っている。 そんな彼女の名は―― 「ノワールちゃん……!」 「お久しぶりです。……まぁ、前に会ってからそんなに経ってませんけど」 そう口元を緩めながらも、ノワールは視線を霧の奥――騒動の中心へと向けた。 「しかしまぁ、リアライズの気配を感じて来てみれば……思ったよりもでかいのが中にいやがるようですね」 そして視線だけをブランに戻し、声色を一段落として続ける。 「あなたも野次馬気分でここにいるなら危ないですよ。いつあそこから溢れてくるか分かりませんし。」 「違う、違うの……!」 ブランは即座に否定するようにかぶりを振った。 言葉が震え、瞳は不安に大きく揺れている。 「あの中に……聖心がいるの!」 その言葉に、ノワールの表情がわずかに動いた。 「……あぁ、なるほど」 「ノワールちゃんお願い! 一緒に……!」 「嫌です」 返された拒絶はあまりにもあっけなくて、ブランは一瞬、聞き間違いかとすら思った。 「えっ……」 「当たり前です。慈善家じゃないんですよ。無償で誰かを助けるなんて、そんな酔狂なことするはずないじゃないですか」 当然のように言い切られ、ブランは言葉を失った。 思わず口を開きかけるものの、続きが出てこない。 そんなブランをよそに、ノワールは飄々とした調子で言葉を継ぐ。 「……別にいいじゃありませんか。 これだけ大きなデジタルハザードです。そろそろ警察も本格的に動き出す頃合いでしょう」 「もしそれで依頼が来れば、ししょーも動くでしょうし、もちろん私も一緒に付いて行きます。 だからそれまでは待っているのが妥当ってものです。まああなたにとっては少し辛いかもしれませんが」 そして肩をすくめながら、皮肉っぽく微笑んだ。 「それにあの引きこもりも、そう簡単にくたばるタマじゃないでしょう? ししょーほどではありませんけど、そこそこ戦えるようでしたし。 一人で逃げるくらいのことは……」 「――だめ!」 その言葉を遮るように、ブランが鋭く叫んだ。 「……だめ。絶対、今すぐ行かないと……じゃないと、聖心が……!」 押し殺した声には、恐怖と焦燥が滲む。 肩が小刻みに震え、手元の拳をぎゅっと握りしめていた。 「お願い……」 ブランは一歩、ノワールに近づく。 「わたしにできることなら、後で何でもする。 あの霧の中に入れるようにしてくれるだけでいいの……本当にそれだけで、いいから……!」 その眼差しは、必死だった――取り繕う余裕も、言い逃れもない、剥き出しの願い。 ノワールはそんなブランを見つめたまま、しばらく沈黙を守った。 数秒の静寂の後、ため息をひとつ落とし、肩を軽く落とす。 そして、視線を霧の奥ではなく、近くの物陰の方角へと流した。 「……仕方ないですね。いいでしょう。『霧の中に入るまで』ですよ?」 「……ほんと?」 信じられないというように、ブランが息を呑む。 ノワールはちらと彼女を一瞥し、口角をわずかに上げた。 「ただし、条件があります」 「……?」 「このツケは全部、あの引きこもりに回しますから。 ――ウチの依頼は高いんです。利子付きで、きっちり返してもらいますよ?」 もはや取り繕わずにやりと笑うノワールに、ブランは何も言えず、ただ小さく頷くしかなかった。 *** 数分後、二人は建物の陰で身を寄せていた。 「えっと、これ……で本当に大丈夫? 目立ちすぎじゃない?」 ブランが不安そうに自分たちの格好を見下ろす。 「完璧です。目立つのが目的ですから。それより集中してないと落ちますよ?」 ノワールは小さく微笑み、落ち着いた様子で頷いた。 「さあ、行きましょう」 二人が再び通りに現れた瞬間、それまで騒がしかった人混みのざわめきが、一斉に静まり返る。 「なんだあれ……!?」 そこにいたのは、まるで悪夢から抜け出したような『一体』の怪人だった。 黒いフードは肩から足元までたっぷりと広がり、その頭部はふらふらと不気味に揺れる巨大なカボチャの仮面で完全に隠されている。 だが何よりも人々の目を奪ったのは、四本の腕――下の二本はノワール、上の二本は言わずもがな肩車されたブランのものだ――その手のひとつに握られた黒光りする拳銃だった。 「え、仮装? 本物じゃないよね……?」「ちょ、誰か止めろ!」 不安と好奇、そして恐怖の入り混じったざわめきが広がるなか、二人は迷いなく規制線へと向かって歩を進めていく。 「こういう時、銃って便利ですよね。手間が省けます」 ノワールがさらりと言う。その声は、妙に楽しげですらあった。 「……本当に大丈夫かなぁ?」 何とも言えず、ブランは小声で返すしかない。 とはいえその効力は抜群だった。 異様なカボチャ頭の怪人と、拳銃という分かりやすい脅威に、人々の波はまるで海が割れるように両側へと避けていく。 間もなく、警察官たちがようやく事態の異常さに気づき、怒鳴り声を上げながら規制線の内側から駆け寄ってくる。 ――この瞬間、すべての視線が一斉に二人へと集中した。 「今です」 ノワールが小さく呟き、懐から漆黒の小さな玉を取り出す。 「『ソーラーモンの欠片』」 そのまま空中へ放り投げるのを合図に、ブランが静かに右手を掲げる。 淡い輝きと共に彼女の手元へ、三又の槍が現れた。  「……『ディバインピース』」 刹那、槍から放たれた純白の光が一直線に玉を貫き、次の瞬間―― あたり一面を眼を灼くような閃光が覆い尽くした。 「っ――!」 誰もが一斉に目を覆い、あちこちで混乱の叫び声が飛び交う。 その隙を逃さず、ブランはカボチャの仮面を外し、ノワールの肩から軽やかに飛び降りた。 「ありがとう、ノワールちゃん!」 「助けてあげるのはここまでです……まぁ、頑張ってきてください」 ノワールはそう言い残し、背を向けて歩き出す。 ブランもまた、逆方向――霧の中へと歩みを進めた。 別々の道を進みながら、ブランは最後にもう一度だけ振り返り、ノワールに手を振って感謝の気持ちを伝える。 そして、迷いを振り切るように、霧の中へと駆け出していった。 8. 飛び込んだ霧の中は、まるで別世界のようだった。 ひんやりと湿った空気が肌にまとわりつき、視界はわずか数メートル先も見えない。 商店街の賑わいは跡形もなく消え、代わりに押し寄せるのは不気味な静寂だけだった。 「……聖心ーっ!」 声を張り上げても、霧の中に吸い込まれるだけで返事はない。 ただ、白い濁流が終わりなく続くばかりだ。 初めの数分は、ブランも手を前に伸ばしながら慎重に歩を進めていた。 しかし、数十分もすると歩くだけでは足りなくなり、自然と小走りになって、最後には無我夢中で駆け出していた。 (どこに……どこにいるの! 聖心!) しかし、走れど走れど景色は変わらない。 行く先にはまた、同じ白い霧が広がるだけだ。 次第に息が切れ、足がもつれる。 ついにブランは転んでしまった。 「……っ!」 手のひらに感じる地面の冷たさが、彼女の心をさらに重たくする。 膝の擦り傷がじんわりと痛み出し、霧の中にひとり取り残された孤独感が胸を締め付けていく。 まるでこの世界そのものが、彼女を拒んでいるようだった。 このままでは聖心のもとにたどり着けない。 それどころか自分は永遠にこの白い世界を彷徨い続けるのではないか―― ふと、そんな想像が頭をもたげる。 「うぅ……」 ブランの心に静かな絶望が広がり、視界が滲み始めた。 その時だった。 「やぁ、泣いてるの?」 場違いな程に、軽やかで明るい少女の声が霧の中から響いた。 突然の声に驚き、ブランは反射的に顔を上げる。 しかし、周囲には誰もいない。 「泣いてない!……誰? どこにいるの?」 虚空に投げかけた問いに、返事はすぐ返ってきた。 「残念ながら姿は見せられないんだ。ごめんね」 ブランは目を見開き、声の方向を探すように顔を巡らせる。 どこかで聞き覚えがある気がする声――けれど、それが誰のものなのか、思い出せない。 「君とわたしが直接会うのはあんまりよくないから……でも安心してね。 そこはデジタルとリアルを隔てた狭間の場所。 だから、わたしもこうして遠くの次元の向こうから君に話しかけられるの」 「えっと……」 いきなり捲し立てられた情報の意味が理解できず、暫し呆然とするブラン。 それを知ってか知らずか、声は柔らかに続けた。 「迷ってるんでしょ? この霧の中、どう進めばいいのか」 その問いへの答えは明確だった。 ブランは小さく頷く。 「ならわたしが案内してあげるよ。おいで」 胡散臭い、とも怪しい、とも思わなかった訳ではない。 しかし現状を顧みた時、結局のところ他に選択肢は存在しなかった。 言葉に従い、ブランは再び立ち上がると、一歩足を踏み出す。 「こっちだよ」 姿を現すことはなく、どこからともなく耳元で囁くように声は聞こえる。 その導きを追いかけ、ブランは歩き続けた。 霧の中を進む足音が、地面に静かに吸い込まれるように広がっていく。 周囲は深い静寂に包まれ、その音だけが妙に際立っていた。 「ねぇ、君はこの先で何をしたいの?」 そんな暫しの静けさを破るように、不意に声が響いた。 その問いかけにブランは思わず足を止めてしまった。 「何をしたいかって……この霧の向こうで、きっと聖心が大変な目にあってる! だからわたしが助けてあげるの!」 反射的に言葉がこぼれる。 けれどそれを口にした瞬間、ブランの胸の奥には後ろめたい違和感が広がった。 ――これはどこか虚勢を張ったような、自分自身を納得させるための言葉だ。 きっとこの先に聖心はいる。そして困ってる。 そんな彼女を助けてあげたい。それはブランの、間違いない本心だ。 (でも、聖心のところに行って……わたしに何ができるんだろう?) 胸の奥で浮かんではずっと押し込めてきた疑問。 おぼろげな霧のようであったそれは今、確かな実感を伴ってブランの心を押し潰しつつあった。 「助けてあげる、ね。 でもさ、君に何ができるのかな?」 声は、まるでブランのそんな心を見透かしているかのように、冷静に突き付けてくる。 「聖心ちゃんのほうが君よりもずっと強いよ?君が行って、何かできると思う?」 楽し気な口調とは裏腹に、その言葉には容赦がない。 耳をふさぎたくなるほど、残酷な正論。 ブランは無意識のうちに唇を嚙んだ。 (そう、聖心はわたしなんかより、本当はずっと強い。だったら……) ――自分なんて要らないんじゃないか。 思考が絡まり、沈んでいく。 俯いた視線の先に、もはや自分の影すら見えない。 ただ、吐く息だけが頼りなく漂い、霧にまみれて溶けていく。 「……でも!」 やがて、震える声でどうにか言葉を押し出す。 「聖心が大変なときに、わたしが何もしないなんて! そんなの絶対嫌だもん!」 その言の葉は、あまりにも浅はかに霧中へと響いた。 根拠もないし、説得力もない。ただの出まかせな感情論。 けれど、それ以外に何が言えただろう。 言葉を紡ぐたび、自分の弱さが浮き彫りになるのがブランはたまらなく悔しかった。 「そう……弱い君は、弱いくせに、自分の自己満足のために危険に飛び込もうとしているんだね?――そして君もまた、聖心ちゃんを置いていくことになる」 返された言葉は今までの声らしからぬ冷気――聞く者が凍えるほどの冷たさを孕んでいた。 「君が嫌いな安里結愛も、聖心ちゃんを置いて行った。 君も同じことをしたら、それこそ彼女と同じだよ。 それでもいいの?」 その名前を出された瞬間、ブランの呼吸が一瞬止まる。 胸の中にあるデジコアが嫌な音を立てた気がした。 安里結愛―― 聖心が過去に大切にしていたニンゲンだ。 そいつはかつて、聖心の心にとても、とても深い傷を与えた。 幼少期の傷痕が、聖心の人生にどれほどの影響を与えたのか、ブランには想像もできない。 ただ確かなことは、彼女の名前を口にするたび、未だ聖心の瞳がどこか遠くを見るようになること。 そしてその姿を見るたび、ブランは自分の胸の奥に広がるやりようの無い嫉妬と怒りの炎に苛まれるのだ。 (あんなやつと……) 声の指摘は大方正しい。 確かに、無力な自分が聖心の助けになる可能性は低い。 それどころか、足手まといになるかもしれない。 もし傷ついて命を落とせば、聖心はまた誰かを失う痛みを抱えることになる。 それは、あの愚かなニンゲンと同じことをするに等しい。 つまりブランにとってはとても、とても耐えがたいことだ。 (……それでも) ブランの中でたった一つだけ、声の話で誤っていると確信できる点があった。 それも致命的に、だ。 その内容を明確な形にするためブランは一度、深く息を吸った。 足元に広がる世界は白一色。 頼りなく漂う吐息が、視界を曇らせるように揺れる。 けれど、そんな中でブランは唇を噛み締め、両手を握りしめた。 震える拳に力を込める。 そして正面を見据え、姿が見えぬ相手に言い放った。 「わたしは……聖心を置いていかないよ」 声は未だ震えていた。 けれど、今度は最初の強がりとは違う。 今度こそ、胸の内から沸き上がった言葉だった。 「確かにわたしは弱いかもしれない。 役に立たなくて聖心の足を引っ張っちゃうこともあるかもしれない。 それでもわたしは、聖心に置いていかれたくない! そしてその結愛みたいに聖心を置いていくことだって、わたしは絶対……絶対にしない!」 結局、これも子供の理屈だ。 ただの我儘で、自らの願いを押し通そうとするだけの、未熟で幼稚な想いだと分かっている。 けれど――それでもいい、とブランは思った。 「わたしは!」 その言葉を吐き出すことで、ブランは自らの弱さに正面から向き合う。 そして、その弱さを超えるための決意を固めた。 「聖心が大変なときに隣に立って、一緒に戦える自分になるの!」 言い切った言葉に、もう迷いはなかった。 暫くの沈黙の後―― 声が微笑むように言った。 「答えになってないし、理屈も何もあったものじゃない。でも……うん、いい答えだね。無鉄砲で希望に満ちた『わたし好みの答え』だ」 言葉が終わると同時に、霧の中に淡い光が漂い始める。 まるで星の欠片のような小さな輝きが、ふわりと宙を舞い、静かにブランの胸元へと吸い込まれていく。 触れた瞬間、身体の奥底からじんわりとした温かさが広がった。 「これ……」 「それはわたしを満足させてくれたご褒美ね。 どう使うかは君次第」 胸元に手を当てると、確かに感じる脈動。 心の奥に眠っていたものがゆっくりと掘り起こされていくような、奇妙な感覚があった。 「さぁ着いたよ」 声が優しく告げる。 もはや歩みは牛歩にも満たない速度だったはずだ。 しかし、気がつけばブランの周囲の景色は一変していた。 見渡せば、あれほど深く立ち込めていた霧はわずかに色を失い、 遠くに見覚えのある商店街の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。 「後はこの道なりに真っ直ぐ進むだけ。ここでお別れだね」 進むべき道を示され、ブランはゆっくりと息を整え視線を前へ向ける。 けれど、彼女はそこで一旦足を止めた。 この声の主にまだまだ言いたいこと、聞きたいことは山ほどある。 それでもここまで導いてもらったのは事実だ。 (色々気になっていることは、ある。だけど……) 最後に一言くらいはお礼を言ってもばちは当たらないだろう―― そんな思いが胸に浮かび、ブランはもう一度、声の方へと向き直った。 「うん……あの、ありがとう。わたし――」 「そうそう。ご褒美ついでに、最後にもう一つ、君に助言をしてあげるよ」 だが、そんな彼女の言葉を遮るように、声が続けた。 今までと変わらない軽い調子。 しかし、その言葉にブランは無意識に息を詰める。 霧が薄れ、現実の輪郭が戻りつつあるというのに、声の主の姿だけは依然として見えない。 「と~っても大事なことだから、よく聞いてね?」 それなのに——否、それだからこそかもしれない。 見えぬはずのその顔に、ひどく歪んだ笑みが浮かんでいるような、そんな錯覚を覚えた。 「君は——」 霧の向こう、耳元で囁くように声はゆっくりと言葉を紡ぐ。 それを聞き終えた瞬間、ブランの瞳がかすかに揺れた。 驚きはなかった。それに疑念も。 どこかで、こういうことなのではないかと、うっすらと予感していた。 けれど、それでも胸の奥に広がる波紋を押しとめることはできない。 (やっぱり……) 声の言葉の持つ意味が、ただの推測ではなく、現実として突きつけられたのだと理解する。 そして——。 「――それじゃあ、またね。君がわたし好みの『いい』結末を迎えられるよう、応援してるから」 あまりにもあっさりと、最後の言葉は告げられた。 まるで最初からそこにいなかったかのように、声は静かに消えていく。 霧の中に紛れ、余韻すら残さずに。 ブランはその場に立ち尽くした。 何かを言い返す、もしくは縋ってでも問いただすべきだったのかもしれない。 けれど、すでに霧の向こうには、何の気配も残されてはいなかった。 彼女は静かに呼吸を整え、言葉の意味を噛み締める。 胸の奥に残るざらついた感覚。 それが不安なのか、怒りなのか、悲しみなのか、自分でもよくわからない。 きっと、その全てなのだろうと、ブランは思う。 ただ、一つだけはっきりしているのは―― 「……行かなきゃ」 今は立ち止まるわけにはいかない、ということだった。 ブランは顔を上げ、強く拳を握り締める。 心に刻まれた言葉を抱えながら、今度こそ迷いなく歩き出す。 示された道の先、彼女が目指すヒトが待つ場所へ。 9. 目の前に立ちはだかるズィードミレニアモン。 その巨体が放つ威圧感に、霧すら怯えているかのように揺れている。 周囲の空気は重く冷たい。 それでも聖心は一歩も引かず、鋭い目でその動きを見極めていた。 (これもあの霧のデジモンと同じ……意思を持たない、ただの傀儡) すぐさまそう判断する。 過去に遭遇したズィードミレニアモン――それは人知を超えた力を持つ破壊の象徴だった。 次元すら砕く威力である『本来のタイムデストロイヤー』を不意に受けて五体満足など、当時の自分にだって不可能な話だ。 それに比べ、目の前のこの存在はかつての力には程遠い。 (この弱体化したズィードミレニアモンなら……やれる!) 聖心の拳に、白銀のデジソウルがふつりと灯る。 それは闇を裂く刃のように鋭く輝き、彼女の全身へと力を注ぎ込む。 「……っ!」 光が強まれば強まるほどに、比例するように体の痛みも増していった。 筋肉は軋み、内臓が悲鳴を上げる。 「いくっすよ……!」 それでもと、聖心は気合いと共に大地を強く踏み込んで一気に距離を詰めていく。 狙うは、目の前の巨体――その急所ただ一つ。 ズィードミレニアモンが放った衝撃波が空気を震わせる。 直後、地面が爆ぜるように砕けた。 だが聖心は、迷いなく身を低くし、風のようにすり抜ける。 足の側面で地面を滑り床と平行に疾走するような、 そんな曲芸染みた動きで流れるように死角へと潜り込んだ。 (これで――!) 渾身の力を込めた拳がズィードミレニアモンの胴体を捉えようと迫る。 だが――その瞬間、巨体の輪郭がわずかに揺らぎ、空間に薄い透明な膜が浮かび上がった。 拳が膜に触れるや否や、空間が歪む。 衝撃は裂け目をすり抜け、時空を捻じ曲げながら背後へと跳ね返った。 自らの拳が、今度は後頭部を狙って迫ってくる。 (来たっ……『クロノパラドックス』!) 膜に触れた攻撃を次元の歪みを利用して跳ね返す―― かつての戦いで、聖心達が幾度も苦しめられた技だ。 しかし、だからこそ―― 「知ってるっすよ……『それ』が反らせるのは1度だけ」 振り返ることなく拳を掴み、引き抜いて一気に身体を回転させる。 自らの勢いをそのまま加速に変え、ねじれる空間を駆け抜けて―― 「……落ちろっ!!」 空中でひねりを加えた体勢から、全力の踵落としを振り下ろす。 ズィードミレニアモンの頭部に直撃した一撃は、鈍い衝撃音と共に重く響き、確かな手応えを聖心の足裏に刻んだ。 「……はっ?」 しかし、聖心の顔はすぐに驚愕に染まる。 ズィードミレニアモンはその一撃を受けても微動だにせず、冷たい光を宿す目が彼女を見据えていた。 空虚であるはずのその瞳に、ほんの一瞬、愉悦の色が差したように思えた。 「――ッ!」 その一瞬の思考の空白を怪物は見逃さない。 次の瞬間、巨大な腕が聖心の足を掴み、無慈悲に地面へ叩きつけた。 「ぐっ……あっ!」 地面が砕け、衝撃が彼女の全身を襲う。 しかし、それで終わりではない。 ズィードミレニアモンは再び彼女の足を振り上げ、一度、二度―― 容赦なく地面へ叩きつけた。 瓦礫が舞い上がり、大地が悲鳴を上げるような音を立てる。 (こいつ……最初から遊んで……) 聖心の意識が朦朧とする中、ズィードミレニアモンは彼女の体を乱雑に空中へと放り投げた。 無防備に宙を舞う彼女を、冷たい二対の瞳で見つめながらその巨体がエネルギーを収束させていく。 (タイム、デストロイヤー……!) 身動きのとれない聖心の瞳に、終焉の刻が迫ってくる様がはっきりと映る。 ――ただ、訪れる破滅を見つめることしかできなかった。 「……っ」 一瞬の静寂を挟み、ズィードミレニアモンがついにそのエネルギーを解き放つ。 次元すら砕く混沌の輝きがあたりを埋め尽くし、その中心に、聖心の姿は飲まれていった。 10. ――かくして回想は終わりを告げ、優しい微睡は無慈悲に破られた。 意識の底から、上野聖心の自我がゆっくりと浮上する。 赤黒く染まる空。瓦礫に埋もれた街並み。空間そのものが裂けたかのように広がる、漆黒の亀裂。 目に映る光景は、意識を手放す前と変わらずそこにある。 それはまるで悪夢の残滓のように現実離れしたもので。 「……」 いや、違う。これは現実だ。 認識する。これはまぎれもなく、自分が選び、戦い、辿り着いた、確固たる現実。 ――聖心は、再び敗北したのだ。それも完膚なきまでに。 「ぁ――」 喘ぐように、本能的に酸素を求め聖心は呼吸を試みる。 しかし、肺がぐちゃぐちゃに潰れているのか、代わりに口内へと広がるのは、鉄の味――自らの血の味だけだった 吐き出す息すらも掠れて、喉の奥から湿った音が漏れる。 それでも、痛みの波はどこか遠く、朦朧とした意識の彼方へと流れていく。 全身が既に限界を超えていることは明白だった。 砕けた骨の軋みも、肉の裂ける痛みも、もはや感覚すら届かない。 (……よくもまあ、一度は目を覚ませたな) 人より多少頑丈なのも困りものだ、と乾いた笑いが喉の奥で微かに震える。 もはや体を動かす体力もなければ気力すら湧かない。 かろうじて動かせる視線を僅かに巡らせれば――霞んだ霧の先で、黒い影がこちらを見下ろしていた。 ――ズィードミレニアモン。 破滅を司るその怪物は、相変わらず無機質な光を宿した双眸をこちらへと向けている。 崩壊した街を背負い、ただ悠然と、聖心を観察しているようだった。 (やっぱり……無理だったんだ) 朧げな記憶の中に、最初にタイムデストロイヤーを受けた瞬間が蘇る。 あの時、『もしかしたら勝てるかもしれない』などと、ほんの一握りでも希望を抱いてしまった自分は、なんと滑稽なことか。 ズィードミレニアモンにとっては、最初からずっと遊びだったのだ。 「ウチ、みたい、な人間、が……」 聖心はゆっくりと目を閉じる。 (――他人を救えるわけ、なかった) 怠惰で愚図で、なにも成せない、大嫌いな自分。 そんなやつがヒーローの代わりになろうだなんて、思い上がりも甚だしい。 ハリボテの頑張りも、努力も、全てが無意味だったのだ。 「――――!!!!」 再び、空間が軋む音がした。 ――怪物が、もう一度タイムデストロイヤーを放とうとしている。 この世界の理すら歪め、過去も未来も喰らい尽くす破壊の波動。 あの時の結愛のように、否応なく、自分も今度こそそれに呑み込まれるのだろう。 しかし、聖心に不思議と恐怖はなかった。 寧ろ、この苦しみから解放されるという事実に安堵すら覚えていた。 (これで……結愛ちゃんと一緒のところに、行けるのなら) 瞼の裏に走馬灯のように浮かぶのは、遥か昔の記憶。 誰よりも優しく、誰よりも勇気があって、だからこそ愚かで身勝手な自分に最期まで付き合ってくれた、かつての親友の姿。 『……聖心ちゃん』 もう一度、彼女に会えたら。もしも、あの時の続きを話せるなら。 「ごめんね」と、「ありがとう」を。それだけでも伝えられたら、自分は―― 『聖心、お前は帰れ。こんなところで、死に逃げるな。帰って、生きろ。――結愛の分まで』 (ああ――そうだったね。ガンマモン) もう一つ、過去からの叱咤の声が、戒めのように聖心へと届く。 忘れたくとも、忘れられるはずがない。 忘れた振りをして、目を背け続けていた。 結愛を失い、自死を選ぼうとした自分を止め、ただひたすらに生きることを願った、厳しくも優しい聖心の自慢のパートナー。 (ごめん……でもウチ、十分頑張ったでしょ?) 胸を張れる生き方だったとは口を避けても言えない。 苦しくて、虚しくて、どうしようもなくて。 それでも、ただ彼の言葉だけを胸に、ここまで生き延びてきた。 (だから、もういいよね?) こんな薄汚くしがみついた生もこれまでだ。 目前へと近づく最期の瞬間を、聖心は凪のような気持ちで迎えた。 「――――!!!」 時は満ち、ズィードミレニアモンから極限まで溜め込まれた歪みが一気に放出される。 破壊的なエネルギーが聖心を飲み込もうとした その時―― 「『プロテクトウェーブ』!」 ――まるで鈴の音のような、澄んだ声が響いた。 それは聖心の記憶に深く刻まれた、馴染みのある声。 「……まさか」 はっとして、聖心は閉じていた瞳を見開いた。 視界に映るのは、巨大な怪物の威圧的な影――ではなく、その前に立ち塞がる見慣れた姿。 少女の白いシスター服が揺れ、ピンクのウィンプルが風になびく。 「……ブラン?」 信じられないものを見たように、彼女の名を呟く。 聖心を呑み込もうとしていた破壊の奔流は、ブランの展開した光の防壁によって遮られていた。 やがて、彼女はゆっくりと肩越しに振り返る。 聖心の視線をまっすぐに受け止めながら、ふわりと微笑んだ。 「――もう、大丈夫だよ。聖心」 11. 世界が光に呑まれる直前、聖心は確かに見た。 守るべきはずの小さな影が、迫りくる破滅を前に立ちはだかっている。 炎のように揺れる輝きを纏うそれはひどく儚く、それでいてあまりにも鮮烈で。 まるでたったひとつの想いだけで、世界の理を変えようとしているかのようだった。 ――全ては、聖心を守るために。 「――もう、大丈夫だよ。聖心」 「……あ」 目の前に立ちはだかったのは、ブランだった。 彼女は両手で三又の槍を握りしめ、まるで祈るように光の結界を展開していた。 その光壁は、空間を歪ませ、時間すらねじ曲げるような衝撃とぶつかり合い、激しく軋みを上げている。 ――それでも、断固として壊れることはなかった。 小さな身体が暴風に煽られ、シスター服の裾が激しく舞い上がる。 「ブ、ラン……ど…して……?」 信じられない光景を前に、聖心は唖然と呟いた。 轟音が響く。 次の瞬間、再び結界が軋み、光の壁に無数の亀裂が走る。 同時に、ブランの体がかすかに揺らいだ。 ――聖心は気づいてしまった。 槍を構える小さな手は、ぼろぼろに傷ついていた。 細い指には亀裂が入り、砕けたデータの欠片が舞う。 それはまるで今にも崩れ落ちそうな砂の楼閣のようで。 それでも、彼女は結界を維持し続ける。 泣き言ひとつ言わず、ただただ、大切な人を傷つけさせないそのために。 「……ばっ、馬鹿なのお前は!!!」 咄嗟に出た聖心の声は、喉の奥から絞り出すような掠れたものだった。 呼吸するだけで肺が焼けるような苦しみを生む。 酸素が足りない。 喉が裂けそうだ。 「そんなことしてないでさっさと逃げてよ!!!」 ――それでも。 罵声を浴びせてでも、傷つけてでも、嫌われてでも。 この大切な存在を、命が尽きる前に、地獄から逃がせるのなら。 声が枯れ、苦しみに喘えぎながら、命の限り叫ばずにはいられなかったのだ。 「このっ……足手まとい!!!!」 そんな聖心の必死の訴えをブランは―― 「……やだ」 一蹴した。 「なっ何で……」 「だって、聖心を置いていくなんて、そんなの絶対に嫌だから」 その優しい微笑みと、瞳の奥に宿る強い光は微塵も揺ぎはしていなかった。 「……っ!!ウチなんて助けたって何の意味もない!! ウチはもうダメなの!死ぬの!だから、お前まで道連れになんて――!」 「……聖心」 聖心の慟哭を断ち切るように、ブランが口を開く。 ――砕け散る瓦礫の音も、軋む結界の悲鳴も、この瞬間は、全てが遠のいて。 まるで周囲の時間だけが止まったかのように、聖心の耳にはただ、その声だけが鮮明に届いた。 「わたし、とっても怒ってるんだよ?」 文面とは裏腹に、穏やかな口調で告げられた言葉。 しかし、その奥に抗いがたいほどの熱を孕んだ何かが潜んでいることを、聖心は本能で悟る。 ――それは強く、揺るぎなく、確固たる意志によって制御された激情だ。 聖心は、思わず息を飲む。 ブランが怒ることは珍しくない。 彼女は天真爛漫で、よく笑い、よく怒り、よく拗ねる。 感じた感情をそのままに、まっすぐ表現する子だった。 けれど、今の彼女から感じるのはそれとは違う。 いつもの駄々をこねる子供の怒りではない。 そこにあるのはただひたすらに、はちきれそうになるほどに抑え、濃縮させられた――烈火のごとく燃え盛る怒りだ。 「聖心が渋谷のハロウィンに連れていってくれなかったこととか、白いワンピースのこととか…… さっきひどいことを言ったことにだって、わたしは全部に怒ってる」 「……でもね? それよりも、もっとずっと怒ってることがあるの」 語る彼女の声は、ひどく澄んでいた。 「それは……聖心が、死のうとしてたこと」 「満足そうな顔して、何の未練もないみたいに生きることを諦めようとした…… それが、一番許せない」 ピシリという音とともに、結界の亀裂はさらに広がる。 ――その分、尋常ではない痛みのフィードバックが彼女を襲っているはずだ。 「聖心は結愛がいなくなって、ずっと苦しかったんでしょ? 置いて行かれたから、辛かったんでしょ?」 それでもブランは気にしていないとばかりに、ただ淡々と聖心の『罪』を連ねていく。 「だったら、どうしてわたしに同じことをしようとしたの? どうしてそんな風に自分だけ満足して、わたしにその苦しみを押し付けようとしたの?」 放たれる一言一言全てが、時雨の刃の如く聖心の心を穿つ。 見えない傷から溢れる血を塞ごうとするかのように、聖心は胸を抑え―― そしてそれ以上に、自分はまたこの少女の心を深く傷つけたのだと、遅まきながら理解した。 「それとも、わたしは聖心が死んでもそこまで悲しまないと思った?」 「聖心にとってわたしは、わたしにとって聖心は、そんなに軽い存在だったの?」 少女の問いに、聖心は何も答えることができなかった。 『違う』『そんなつもりじゃなかった』 言うだけなら簡単だ。 でもきっと、今この場においてそれは全部嘘になるのだ。 あの時、自分は確かに満足して死のうとした。未練がない、と、そう思ってしまった。 彼女を傷つけるつもりなんて、微塵もなかった。 けれど、結局のところ自分は―― 「……ごめん、なさい」 頭を項垂れ、震える声がか細く零れる。 それが聖心の、心の奥底から絞り出された本音そのものだった。 「……聖心」 判決を下す声が、先ほどまでよりもずっと傍で名前を呼んだ。 ――こんなに近くに? 聖心は、驚きで僅かに瞳を揺らし、顔を上げる。 そこにいたのは、いつの間にか目と鼻の先まで距離を詰めたブランだった。 純白のシスター服が汚れることを厭わず瓦礫の隙間に膝をつき、聖心の前にしゃがみ込む。 杖で結界を維持したまま、それでも彼女の手は迷わず差し伸べられた。 聖心のぼろぼろに傷ついた手を、同じくぼろぼろな両手で、それでもしっかりとブランは握り締める。 「わたしは、聖心に置いていかれたくない。一人にしないでほしい。 ずっと一緒に、隣にいてほしい」 煌きの宿る瞳が、真っ直ぐに聖心を射抜く。 「聖心にとってわたしは弱くて、頼りなくって、守らないといけない存在かもしれない。 でも、それでも、わたしは聖心と並んでいたい。 聖心が大変な時には、共にその苦しみを分かち合う存在でいたい」 祈るように、紡がれる言葉。 「――だから聖心、一緒にいこう。そのためにわたしは、ここにいるの」 その一心の想いが、聖心の心を熱く震えさせる。 (……こんなウチなんかが、ここまで思われる資格があるのだろうか) 仮初の強さに奢り、大事なものが最後まで何も見えていなかった自分。 大切な人も守れず、生きる目的を失って自堕落に日々を過ごしてきた自分。 自分の受けた傷を顧みず、気づかぬうちに人にも同じ痛みを味合わせようとしていた自分。 そんな自分の全てが、聖心はどうしようもなく嫌いだった。 今でもそうだ。 他の誰よりも、何よりも嫌いだ。 ――それでも。 「……こんな情けないところばっかなウチは、一人じゃ何にも出来ないクソ雑魚テイマーっす。 それでも……いや、だからこそ一緒に戦ってくれるっすか?」 握られた小さな手を、そっと握り返す。 それだけで、ブランの表情がふっと揺れた。 驚きが走ったのは一瞬。 すぐに彼女は、太陽のような無垢な笑みを咲かせる。 「うんっ!!」 その笑顔と同時に――結界が砕け散った。 鋭い破裂音と共に、タイムデストロイヤーの奔流が二人を呑み込まんと迫りくる。 「……!?」 聖心のポケットから、突然、強い光があふれ出した。 月と星のブローチが想いに呼応するように淡く脈打ち、宙へと浮かび上がる。 その輪郭は光に包まれながら形を変え、瞬く間に―― 純白に輝く、新たなデジヴァイスへと姿を変えていた。 「……オーバーチャージ・デジソウルバースト!!」 無意識に飛び出した聖心の叫びとともに、銀の閃光が炸裂する。 その輝きがブランを包み、光の渦が天を裂く。 そして―― 「シスタモンブラン超進化――エクソシスタモン・バーストモード!!!」 破滅の波動を消し飛ばし、散りゆく光の粒を纏って天へと羽ばたく七色の翼。 何よりも大切な存在を腕に抱いて、彼女は悠然と宙を舞っていた。 12. 避難所の片隅で、小さな少女は震える指を組み合わせ、祈るように目を閉じていた。 「……どうか、どうか、お姉さんが無事でいますように……」 震える声で呟いたその願いは、かき消されるように虚空へと溶けていく。 彼女の周囲では、多くの人々が身を寄せ合い、不安に押しつぶされそうになっていた。 中には涙を流す者、呆然と座り込む者もいた。 隣に座る母親が、不安げな娘の手をしっかりと握りしめる。 今はその温もりだけが、少女にとって唯一の救いだった。 しかし―― 遠く、商店街の中央で蠢く巨大な影が、少女の心にじわじわと絶望を広げていく。 それはあまりにも巨大で、あまりにも恐ろしい、黒と紫の異形の怪物。 ビルのような巨体が、空間そのものを歪ませ、世界を侵食する。 終末のようなその光景に少女も、母親も、周囲の人々もみな一様に息を詰まらせた。 (あんなの……勝てるわけがない……) ズィードミレニアモン。 少女はその名前を知らない。 しかしそれがこの世の理を超えた存在であることは、幼い彼女にもわかった。 圧倒的な力の前に、人間はあまりにも無力だった。 (あのお姉さんも……) 少女の頭に、ボサボサ髪のシスターの姿が浮かぶ。 あの人は、最後まで自分を守ってくれた。 それなのに、自分は。 「……わたしは、逃げたんだ」 呟いた瞬間、涙が零れ落ちた。 情けなさで胸が締め付けられる。 自分だけが安全な場所にいて、助けてもらった命をただ震えて守ることしかできない。 そんなの、嫌だった。 なのに、何もできない自分が悔しくて悔しくて―― 「……っ!」 絶望に飲み込まれそうになったその瞬間。 空に、眩い光が弾けた。 それは銀の輝き。 夜明けのような、一筋の光明。 「な……に……?」 少女だけでなく、避難所にいた全員が息を呑んだ。 光は霧を突き抜け、ゆっくりと降り注ぐ。 まるで、全てを優しく包み込むように。 傷ついた人々の身体が、ゆっくりと癒えていく。 それだけじゃない。 ボロボロになった商店街の建物も、ひび割れたアスファルトも、 その光が触れた瞬間、まるで最初から何もなかったかのように修復されていく。 「すごい……」 少女は震える手を伸ばし、降り注ぐ光をそっと掴もうとした。 優しい温もりが指先を包む。 そして、少女は見つけた。 「……!」 光の中心にいる、二つの姿を。 七色の翼をはためかせ、天空を舞う一人の女性。 そしてその腕に抱かれるのは見覚えのあるボサボサ髪の―― 「ママ……!見て!」 目尻に滲んだ涙が、頬を伝う。 少女は震える声で隣の母親を呼んだ。 「シスターさん、無事だよ……!」 少女の声に、母親は目を見開く。 そして、周囲にいた人々も気づいた。 ーー希望は伝播し、絶望に淀んだ空気に光が差し込む。 いつの間にか、その場の全員が祈るように天を見上げていた。 「お姉さん……頑張ってっ!」 少女は万感の想いを込めて、そっと呟く。 遠く、銀の光に包まれながら、二人の姿はなおも輝き続けていた。 13. 白銀の光が世界を包み込んだ瞬間、聖心は確かに感じた。 死にかけていたはずの自分の身体が、温かな輝きに包まれ蘇っていくのを。 傷が治るなんていう単純なものではない。 骨が繋がる感覚も、肉が再生する痛みもなく、ただ自分の身体が「最初から傷ついていなかった」ことになっていく。 ――まるで、傷というテクスチャ自体をぺらりと身体から引き剥がしてしまったかのような。 「これは……」 驚きと共に呟いた声すら、先ほどまでの掠れたものではない。 肺は正常に機能し、呼吸は楽になり、体中に満ちる力はまるで全盛期のようだった。 眼下を見渡すと、奇跡の光は霧を貫通して商店街の隅々にまで広がっていた。 崩れ落ちていた建物は元通りになり、割れたガラス片も、砕けた道路も、何もかもが修復されていく。 さらに周囲へ目をむければ、あのズィードミレニアモンが空けた巨大な亀裂――次元の穴さえも存在を赦されず、時を遡るように塞がれていくのが見えた。 「……まるで神さんの奇跡みたいっすね」 ぽつりとこぼれた言葉は、誰に向けたわけでもなかった。 ただ、胸の奥から自然にあふれ出た、心の本音だった。 上野聖心は、神なんぞ信じてはいない。 信仰心は結愛を失ったあの時、神の代弁者などとイタい肩書きを掲げていた自分と一緒に捨ててきた。 それでも―― 今この瞬間、目の前で繰り広げられている光景だけは、どうしても否定できなかった。 常識も、理屈も、冷めた現実感さえも置き去りにして。 そこにあったのは、ただ純粋な“奇跡”なんだと。 眩しいほどの光。 眩暈がしそうなほど、美しくて、温かくて。 そして、その中心には忘れようもない、『彼女』の姿があった。 ――互いの呼吸の熱が感じられる距離で、視線が交差する。 気がつけば、聖心は彼女の両の腕に抱かれていた。 その事実がやっと心に落ちてきて、照れくささと、くすぐったさと、少しの戸惑いが混ざり合う。 「……ブラン?」 思わず、ぽつりと名前を呼んだ。 確信はあった。 それでも、声はどこか頼りなく震えてしまう。 目の前の存在は、きっとあのブランに違いない。 けれど、少女のあどけなさを僅かに残しながらも、今の彼女のあまりに気高く、威風堂々とした様は――まるで別人のようにも思えた。 そんな聖心の不安を和らげるように、彼女はにこりと笑ってみせる。 その微笑みはまぎれもなく、聖心の知っている“ブラン”のものだった。 「そうだよ、聖心」 その声に、ようやく聖心は現実を認識する。 今、自分を抱えているのは――エクソシスタモンバーストモードへと進化したブランなのだ。 その背に広がるのは、七色に輝く翼。 身を包む白銀のオーラは柔らかく揺らめき、まるで空想のはずな神の加護が現世に形を成したかのようだった。 やがて、空に広がっていた光が静かに収束していく。 ふたりを包んでいた浮遊感もゆるやかに消えていき、ブランは優しく聖心を地上へと下ろした。 地面に足が触れる。 その一瞬、足裏から伝わる重力に、ほんのわずかな現実感が戻ってくる。 けれど、先ほどまで感じていたぬくもりの名残が、心の奥でまだふわりと揺れていて―― 聖心の胸は、いまだ落ち着くことを知らなかった。 だが、その余韻に浸る間もなく空気がにわかに張り詰める。 足元から這い上がるような重低音。 耳鳴りにも似たそれは、空間を汚染する敵意そのものだった。 先ほどまで神聖に満ちていたこの場の雰囲気は、見る間に濁った殺気へと塗り替えられていく。 「……っ!?」 反射的に顔を上げた聖心の目に映ったのは――ズィードミレニアモンの双眸。 冷たい光が宿ったその瞳が、まっすぐにこちらを見据えていた。 「……何やってんすか、あいつ……」 言葉にしながらも、その意味はすぐに理解できた。 怪物の周囲に渦巻くエネルギー。 今までとは比べものにならない、異質なまでの威圧感。 莫大なその力によって捩れ切った空間は光すら歪曲させ、黒色の輝きという矛盾した光景を生み出している。 それは間違いなく――タイムデストロイヤーの“全力”だった。 「……まずいっす、ブラン!!」 焦燥の叫びが、反射のように口を突く。 しかし、ブランは慌てるそぶりもなく顔を上げると、優しく微笑んだ。 「大丈夫。任せて」 ――不思議だった。 たったそれだけの言葉だ。 でもどうしてか、聖心の不安も焦りも、根こそぎ溶かして消してしまうような力がそこにはあって。 そして次の瞬間。 ズィードミレニアモンによる、過去最大にして最悪の破壊の奔流が放たれた。 膨張する黒紫の光が世界の輪郭を歪ませ、あらゆるものを呑み込まんと迫ってくる。 ブランは迷いなく、聖心の前へと一歩進み出た。 「私はその傷を認めない――」 そして、片手を破滅の光に対して、掲げる。 「――『デウス=ウルト』!!」 その宣言と同時に、白銀のオーラが爆発するように広がった。 眩い輝きが渦を巻き、闇を祓うかのごとく空間を満たしていく。 白と黒の境界はみるみる縮まり、やがてゼロとなる。 ――ぶつかり合う二つの色の間に、拮抗の瞬間は訪れなかった。 破滅の奔流は、白銀の領域を容赦なく突き抜けてくる。 「……っ!!」 聖心は反射的に目を瞑り、息を呑む。 全身が硬直し、来たる衝撃に備えて身を固めた。 ――だが。 いくら待っても、それがやってくることはなかった。 代わりに涼やかな風が一陣、彼女の頬を優しく撫でて通り過ぎていく。 「……?」 恐る恐る、瞼を開いた。 広がった目の前の景色は――まるで何事もなかったかのように、そのままそこにあった。 「……消えてる?」 聖心は呆然と呟く。 確かに放たれたはずだった、タイムデストロイヤーの黒紫の閃光。 あれほどの破壊の波動が、今や跡形もなく消えていた。 否、違う。 ただ視界から消えたわけじゃない。 その痕跡すら、この白の領域から“最初からなかったかのように”消え失せていたのだ。 衝撃も、焼け焦げた匂いも、地面を削った痕もない。 すべてが、まるで破壊がもたらした結果など存在しなかったかのように、静かに、完璧に――否定されていた。 代わりに空を舞っていたのは、白銀の光の欠片たち。 ふわり、ふわりと。 きらめく粉雪のように、宙を漂う。 それはまるで、失われた“破壊の余白”を埋めるかのように―― 優しく、儚く、この世界に降り注いでいた。 「これが、今の私の力だよ。聖心」 舞い散る光を背に、ゆっくりとブランが振り返った。 いつかと変わらない爛々と輝く瞳が、聖心へと問いかけている。 「次は、どうする?」と。 言葉にしなくても伝わってくる想い。 胸に、再び熱いものがこみ上げてくるのを感じた。 ブランは、信じてくれている。 聖心が何を選ぶのか、どう動くのかを。 自身の全てを、ただ真っ直ぐに預けてきている。 「……今度こそ、応えなきゃっすね」 ぽつりと呟き、聖心はそっと瞼を閉じる。 思考の深海に潜るように、わずか数秒の静寂が流れて―― 「……行くっすよブラン。作戦名は――『探偵助手』」 ――そして、聖心は目を開く。 その顔にはかつてのように、どこか不敵な笑みが浮かんでいた。 14. ブラン──エクソシスタモン・バーストモードは、再び光をまとうと、音もなく宙へ舞い上がる。 その七色の輝きは、上昇とともにゆっくりと天に広がってゆき、やがて商店街一帯を覆うような、うすく柔らかな光の天蓋となった。 狭間から差し込む幾筋もの光が、曇った世界の殻を裂くように交差し、霧に沈んでいた街並みにひとつ、またひとつ、線を描き落としていく。 そんな絵画のような空の中心で、ブランはただ静かに地上を見下ろす。 視線の先には、ここにもまた白銀の稲光が一筋、地を這うように進んでいた。 その名は上野聖心。 踏み出すたび、靴裏が地面を噛み、反発する熱と圧が脛を打つ。 それを無理やり蹴り出しに変え、彼女は重心を低く前のめりに加速していく。 折角治ったのにもう限界を超えそうな足の痛みも、肺が焼けつくような呼吸だって、全て意識の外だ。 風を裂き、駆けて、駆けて、駆け続ける。 足音、呼吸、鼓動すら後方に溶けていき、意識はただ一点へ――前方に浮かぶ影へと収束していった。 ズィードミレニアモン。 霧の向こう。 巨大で異様なその存在が、近づくにつれゆっくりと像を結んでゆく。 だが、そんな聖心に、怪物は一瞥すら示さない。 視界に入っていないはずはない。 それでも奴は、自分に意識を割く価値すら感じていないのだと――走りながらも、彼女は直感的に理解する。 その眼差しは、別の一点に吸い寄せられていた。 先ほど、自らの攻撃をあっさりと止めてみせた“異物”。 上空に漂う、光の存在――ブランへと。 一挙手一投足を凝視し、機会を伺うその執念は、もはや警戒を超えて、執着に近かった。 「モテモテじゃないっすかブラン……ととっ」 無意識に羽虫を払うがごとく、ズィードミレニアモンの手から放たれたタイムデストロイヤーが、散弾のように飛び交う。 (こっち見てないくせに…器用なことを…!) 精密さの欠片もない乱射だが威力だけは一級品だ。直撃すれば、ひとたまりもない。おまけに不可視ときたものだ。 (それが面で飛んできてるんだからたまったもんじゃない……けどっ!) だからこそ、聖心は極限の集中を以ってその歪みの軌跡を読み切る。 呼吸を整え、脈と身体を一致させる。 勢いはそのまま、タイミングを見極め、空気の狭間に滑り込むようにして身体をしならせる。 「――っ!」 飛来した弾が肩先を掠め、焼けた金線のように皮膚を裂いた。 赤が滲み、痛覚が電流のように駆け抜ける。 だが、それでも速度は落とさない。 (この程度で止まるのなら――) ――最初から彼女の手を取ってなどいないのだから。 昂る想いに反応した白銀のデジソウルが、後方で舞い上がって飛沫のように虚空へと消えていく。 そうして幾度も迫る死の波動を、時には跳ね、時には身をひねり、あるいは真正面から受け止めて突き抜けたその先。 霧の帳の向こう側で――ついにズィードミレニアモンの巨躯をはっきりと、射程圏内へ捉えた。 互いの距離は、もはや目と鼻の先。 そのとき、怪物の視線がわずかに逸れる。 空を見据えていた双眼が、ようやく地上にピントを合わせて――聖心を捉えた。 だが、その瞳に宿るものは何もなかった。 驚きも、警戒も、ましてや恐怖など。 突き刺さる視線の冷たさに、聖心は思わず小さく笑ってしまう。 全く、この怪物はどこまでも―― 「無関心でいてくれてありがたいっす。……ほんとに、ね」 呟きと共に、膝を沈める。 大地を蹴り抜く音が地鳴りのように響いたその刹那。 彼女の拳は既に振りあげられていた。 鈍い衝撃音。 拳を通して伝わってくるのは、確かな硬さと、濁った重み。 けれど、それだけだった。 手応えはどこにもなく、怪物の身体は微塵も揺れない。 刹那、寸分たがわぬ沈黙が、両者の間に広がる。 その静寂を破ったのは、ズィードミレニアモンからだった。 振りかぶるように大きく上げられた手が、聖心を囲い込むように迫ってくる。 先程のように叩きつけられるのかそれともこのまま蝿のように潰されるのか。 どちらにせよ、捕まれば今度こそ最期なことは想像に難くない。 ――それでも、聖心は口角を上げた。 「慢心、したっすね?」 同時に、聖心の拳が再び輝く。 先ほどとは桁違いの光量――内に秘めた命そのものが、凝縮された白銀の閃光となって脈動する。 「これがウチの、ほんとの全力っ――だああああああぁ!!」 咆哮が、夜の静寂を裂く。 今度こそ、拳は振り抜かれた。その光が尾を引いて夜の帳をなぞる。 圧倒的な煌きに伴った質量がズィードミレニアモンを飲み込む。 まるで天へ伸びる光柱に貫かれたかのように―― その巨躯は、真っ直ぐに夜天の宙へと打ち出されていった。 聖心はそれを見上げ、ゆっくりと息を吐く。 そして―― 「……あとは頼んだっす、ブラン」 誇らしげに、彼女へと託すのだった。 *** 「――さすが聖心」 その言葉に応えるように、宙の天使がゆるやかに瞼を開く。 眼下では、ズィードミレニアモンの巨体がなおも天へと押し上げられていた。 自らに何が起きたのか、まだ認めきれないのだろう。 もがくように宙を漂うその姿は、どこまでも滑稽で――何よりも哀れであった。 ブランは、ただ静かにそれを見下ろし、そしてそっと祈るように唇を震わす。 「『――聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな』」 歌うような調子で言葉を紡ぎ、彼女の右手がゆっくりと掲げられた。 しなやかに伸びた指先から、白銀のオーラが波紋のように拡散する。 次第にそれは、周囲に漂う光片を巻き込みながら巨大な螺旋を描いて収束していった。 「『決して全能ではなく、されど清らかで、慈しみに満ちた……他の何より、愛しいあなたのために』」 やがてその眩い輝きの中に、荘厳な姿を現すのは――金の装飾を帯びた神具のごとき剣の柄。 彼女は一呼吸おいて、それを握ると、ゆっくりと引き抜く。 現れたのは、彼女の身の丈をはるかに超える七色の光の剣。 刃は天意に導かれるように、静かに輝きを放つ。 「――――」 時が凍りついたような一瞬の沈黙の後、ブランは高らかに言い放った。 「『――汝の罪を、ここで清めん!』」 ふわりと、七色の翼が彼女の背に広がる。 ――その眼に一切の迷いはなく。 断罪の剣をその手に携えると、ただ真っ直ぐに、極光が瞬きを繰り返して、堕ちる。 当然、その着弾点はなおも天へ押し上げられ続けるズィードミレニアモンだ。 「――」 だが、それでも彼に動揺の色はなかった。 恐怖も、焦燥も、ズィードミレニアモンには無縁だ。 ――“感情”などという不確定なバグは、この身に存在しない。 ――ただひとつ、微かな違和感を除いては。 胸の奥をかすめるような、小さな“ざらつき”。 それはデータでも理屈でもなく、どこか熱を帯びた、粘つくような―― 「―――」 即座に、思考はそれをただの“ノイズ”と判定し、切り捨てる。 その正体は未だ不明だ。だが、理解も不要だった。 彼は冷静に、ブランへの対応を選び取る。 上空から迫るあの光―― そこに内包されるエネルギーは、確かにこの身を滅ぼすに足るだけの力を持っている。 だがそれは同時に、あの正体不明の化け物を屠る最大のチャンスでもあった。 「――――!」 ズィードミレニアモンの身体の輪郭が滲み、空間が歪む。 クロノパラドックス――あらゆる攻撃を跳ね返す、絶対の反射膜。 今、奴は全ての力をあの剣に注いでいるせいか、タイムデストロイヤーさえ無効化した正体不明の光の輝きを纏っていない。 そんな無防備を晒したままあの剣を振り下ろせば、どうなるのか。 何が起こったかもわからぬまま、自身の技によって真っ二つに『断罪』され、消滅してゆく天使の姿。 そしてそれを唖然と見上げることしかできないあの『憎き』ニンゲンの面は、どれだけ滑稽なものとなるか! その未来を幻視して、ズィードミレニアモンの口元は自然と歪んだ。 だがしかし―― そんな彼が思い描いていた未来は、ガラスのように脆く砕けることとなる。 ズィードミレニアモンを包んでいた空間の歪みが、不意に――前触れもなく、霧のように消え去った。 「……!?」 上空から迫る極光は、その軌道を微塵も逸らさず、なお一直線に降下を続けている。 ――アレに対して反射は発動していない。 であるなら何故? 一体、何が? 疑問が形を成すよりも先に、視界の隅で何かが煌めいた。 回る視界目で追えば、見慣れた白銀の残光を引いた小さな何かが、地上へと落ちていく。 その先に立っていたのは、上野聖心。 彼女は、落ちてきた小さな光の粒を、事もなげに受け止めた。 そして掌の中で転がるそれを見下ろしながら、無邪気な声音で言葉を放つ。 「だから、知ってるって言ったじゃないっすか」 手のひらに収められていたのは――何の変哲もない、10円玉だ。 鈍い銅の輝きが、ズィードミレニアモンの視界に焼きつく。 「『それ』が反らせるのは、一回だけ」 その言葉と共に、ズィードミレニアモンの思考回路に電流が走る。 ばらばらだった情報が、線となって結びついた。 ――何のことはない。 あのニンゲンは、ただ天に向けて『硬貨を打ち出した』のだ。 自身のデジソウルを込めて“攻撃”として成立させたそれは、スィードミレニアモンへと接触し、そして想定通り『跳ね返された』。 つまり――クロノパラドックスは強制的に発動させられたのだ。 反射は、一度きり。 もはや、ズィードミレニアモンにブランの一撃を弾き返す術は残されていない。 「――――!!」 破滅の未来はもはや回避不能だと、はじき出した演算結果は明確に物語る。 だが―― 瞬間、ズィードミレニアモンの思考を満たしていたのはもはや“自身の生存”ですらなかった。 それを押しのけるように広がっていくのは、かつて排除したはずの異物。 何度も無視し続けた、あの粘つくようなノイズ。 その正体に、根源に迫るため、最期の瞬間までズィードミレニアモンは思考を回し続ける。 ――何に対してこれほど『■■』を感じているのか。 ニンゲンによって『上昇し続けるこの身』に、『クロノパラドックスを発動した直後のこの絶妙なタイミング』で『攻撃を当てられた』という事実だ。 これの意味するところは―― 「……これまでの釣りは、きちんと返してもらったっすよ」 ――つまり、自身の思惑も、思考も、咄嗟の反応でさえ、すべてがこの矮小なニンゲンの掌の上だった、ということだ。 「――――ッ!!!」 怪物の口が、音のない叫びを漏らす。 それは怒りだったのか、恐怖だったのか。あるいはそのどちらでもあってどちらでもない。 彼が初めて知った『敗北』に伴う感情の輪郭だったのかもしれない。 しかし、その正体に辿り着くよりも早く―― 「ディバイン――ヘヴンッ!!!」 天が、裂けた。 断罪の一閃が、が霧の結界もろとも怪物の巨体を一刀のもとに両断する。 咆哮も、抗いも、最期の叫びすらも許されず―― 七色の極光が、ズィードミレニアモンという存在を焼き尽くした。 ――空を裂いた光の残滓は、風と共に儚く溶けてゆく。 残されたのは、静まり返った大気と、透き通るような夜空の紺。 そこに、もはや霧の痕跡はない。 やがて、空から一筋の光が舞い降りる。 七色の輝きをまとったその存在――ブランは、静かに翼をたたみ地上へと降り立った。 その視線の先には、聖心がいる。 ふたりの目が合う。 どちらからともなく、自然に歩み寄り―― そして、そっと、額と額を合わせる。 「こつん」と触れたその瞬間、互いの唇に、微笑みがこぼれた。 やわらかな残照が、ふたりの輪郭をやさしく照らす。 それは、長き戦いの終わりを告げる穏やかな光。 こうして物語は、静かに――その幕を下ろした。 エピローグ 月明かりが、静かに教会の屋根を照らしていた。 柔らかな光が建物の輪郭をほのかに浮かび上がらせ、夜の静けさをいっそう際立たせている。 一方、そんな外の静謐さとは対照的に、教会の中はにぎやかに彩られていた。 聖心がミコトの指示の元、こつこつ飾りつけたジャック・オー・ランタンや、紙のコウモリがあちこちに吊るされている。 高い天井の梁にも、オレンジ色のリボンや小さな電飾が絡ませてあり、教会全体がすっかりハロウィンの装いだ。 その一角――キッチンでは、ミコトがハロウィンディナーの仕上げに腕を振るっている。 鍋からはことことと心地よい音が響き、立ちのぼるスープの匂いが空間に温かみを添えていた。 「……流石ミコトちゃんプロデュース。渋谷のハロウィン顔負け……なんて、厨房を追い出されたウチが言ったら怒られるっすか」 そんなご馳走の気配を背に感じながら、今、聖心は裏庭へと続く扉の前に立っている。 「しかし……ほんと、今日は激動の一日だったっすね」 ぽつりと漏れたその言葉は、誰に向けたわけでもなく、ただ夜空へと溶けていく。 思い返すのは、数時間前のこと。 商店街を覆っていた霧の結界、自我を持たないデジモンたちの出現。 そして――すべてを終わらせた、ブランの光の剣。 あの一振りが、霧ごとズィードミレニアモンを両断し、戦いに終止符を打ったのだ。 「……まあその後はその後で大変だったっすけど」 結界が壊れた後、現場には警察の部隊が雪崩れ込み、混乱の収拾や被害者の保護に奔走していた。 その流れで、聖心たちも重要参考人として事情聴取されかけたのだが、一目散にその場を抜け出し、教会まで逃げ帰ってしまったのだ。 見ず知らずの他人との会話が煩わしかったのはいうまでもない。それになにより―― 「――あそこは、信用できない」 過去の苦い経験が聖心の頭を過ぎる。 ブランのあの力のことも含めて、知られるのが得策だとは思えない。 正直、後で『あの人』――母親に一報入れておけば何とかしてくれるだろう、という楽観もあった。 というより、こんな時くらい役に立ってもらわないと困る。 ――結局事件は公式には、“地中から漏れたガスの影響によって発生した霧”と“それに伴う集団幻覚”という形で処理された。 ズィードミレニアモンの存在も、他のデジモンたちも、作られた虚構の中に飲み込まれていく。 黒幕の正体は、いまだ掴めぬままだ。 (心にもやもやとした気持ち悪さが残るのは事実。けれど……) けれど、それを追うのは自分たちの役目じゃない、と、聖心は思う。 少なくとも今夜くらいは、こうして静かに過ごしたって罰は当たらないだろう。 「なんせ、やり残したことがまだ残ってるっすからね」 ココアの湯気がゆっくりと昇ってゆく。 その香りが鼻先をくすぐり、わずかな緊張がほどけた気がした。 聖心は、そっと目の前の扉に手をかける。 気圧差に押されて夜風が室内へと強く吹き込み、ポニーテールが大きく揺れた。 思わず一瞬目を閉じてから、そっと開けば―― 視界の先には、見慣れたピンク色のウィンプルの背中があった。 「ここにいたんすね。ブラン」 そう呼びかけると、彼女は振り返り、いつもの笑顔を向けてきた。 胸元の月と星のネックレスが、白銀の光を受けて柔らかに輝く。 「あっ聖心!」 その体には、あのときの光はもうない。 バーストモードの輝きは消え、そこにいるのはいつものブランだ。 「ずっとここにいたんすか?」 カップを差し出しながら尋ねると、ブランは小さく頷いた。 「うん。二人とも料理や飾りつけで忙しそうだったし……それに、星も綺麗だったから」 「……そうっすか」 聖心はベンチに腰を下ろした。 冷えた木の感触が服越しにじわりと伝わる。 ブランは差し出されたカップを両手で包み、ふわりと香りを嗅いで、穏やかに微笑んだ。 「いい香り!後でありがとって言わなくちゃ。このココア、ミコトが淹れたんでしょ?」 「持ってきたウチにも、もうちょい感謝してほしいっすけど」 わざと拗ねたように言えば、ブランはくすりと笑って、 「もちろん。ありがとう、聖心」 ――そう言われてしまえば、もう何も言い返せなくなってしまう。 短い沈黙が訪れ、夜風が二人の間をすり抜けていく。 やがて、聖心はぽつりとつぶやいた。 「……朝のことだけど」 ブランが顔を上げる。 けれど聖心は、夜空から目を離さないまま、言葉を続けた。 「……まだそっちのことは、謝ってなかったと思って。その、改めて……ごめんっす。」 胸の奥でひっかかっていた棘のような後悔。 聖心は今になってやっと、その一つを引き抜く覚悟を決めた。 あの朝のすれ違い――言いすぎたこと、言えなかったことが沢山あった。 その全てが結局のところ、自分の心が未熟に過ぎたのだと、聖心は思っている。 過去に縛られ、いまだ向き合えずにいる『もう届かないユメ』への想い。 それが、今目の前にある大切なものさえ、見えなくさせていたのだ。 「そういう所、ちょっとずつ直していこうって……今は思っているっす。だから……」 「もういいよ。あの時謝ってもらったし。それにね――」 ふうっとひとつ息を吐き、首が横に振られる。 「聖心がそーいうダメダメのダメ人間だって、わたしは知っているから」 「う゛っ」 図星を突かれ、聖心は思わず声を詰まらせる。 そんな彼女を見て、ブランはそっと目を細め―― 「――でもね?わたしはそんな、ダメダメのダメ人間な聖心がいいの」 それは、彼女らしく相も変わらずに飾り気もない、ただ真っ直ぐな好意の言葉だった。 ――だからこそ、その言葉はこんなにも胸へと刺さるのだろうか。 そんなことを思って、聖心は、思わず手元のカップに目線を落としてしまう。 「……ウチがいいなんて、そんな。昔ならいざ知らずこんな――」 自嘲混じりの声に、ブランは静かに首を振った。 「昔の聖心がどれだけ凄かったのか、わたしには分からない。でも――」 夜風が少しだけ強くなり、彼女のウィンプルが揺れる。 「ここに来て、記憶も何も持っていなかったモノクロなわたしに、初めて色をくれたのは、今の聖心だった」 ブランは、カップをそっと置き、聖心の手を包み込んだ。 その手は、小さくて、でも驚くほど暖かくて。 「今の聖心がわたしの全て。だから……聖心は今みたいに弱くて、ダメダメで――でも強くて優しい、そんな聖心のままでいいんだよ」 「もしそれでも疲れちゃって、歩くことも立つこともできなくなったら……その時はわたしが隣で、聖心の手を引いてあげるから」 「――っ」 聖心は、ふと空を仰ぎ見る。 胸の奥から、どうしようもなくこみ上げてくるものがあった。 あたたかくて、やわらかくて――それでいて、どうしようもなく切ない感情。 気づけば、目頭がじわりと熱を帯びていた。 ぐっとこらえようとしても、視界がにじんで仕方がない。 「……聖心、泣いてる?」 隣からの問いかけに、聖心は思わず肩を震わせる。 「……泣いてないっす」 そう言って、袖でごしごしと顔をぬぐう。 けれど、その仕草がすでに何よりの答えだった。 「ありがとう、ブラン……ウチ、ほんとに……」 言葉が途切れた。 続けようとすればするほど、喉の奥がつまって声にならない。 「うん」 ブランは、ただそれだけを言って、微笑んだ。 何も言わなくてもいい。ただ、そこにいてくれることが、何よりの救いだった。 聖心は、握られた手にそっと力を込める。 「ウチもいい加減……後ろだけじゃなくて、前を。未来を見なくちゃ……いけないっすよね」 月を見上げたまま、ぽつりとそう呟く。 それは祈りであり、決断であり、そして決別であった。 もう、過去に囚われたままではいられない。 あの時に終わってしまった物語の続きを――上野聖心の物語を今ここからまた始めてみたいと、そう思えたから。 何故なら―― 「ウチはまだ、生きているんすから」 ブランは、その言葉に何も返さなかった。 けれど、その手を握り返してくれただけで、すべてが伝わったような気がした。 かつて、結愛を失った夜、聖心は空からこぼれ落ち、輝きを失った星だった。 自分に価値なんてないと、ずっと思い込んでいた。 けれど今は、ブランがそばにいてくれる。 過去の痛みも、心の傷も、決して消えることはない。 それでも、もう一度、前に進もうと思える。 ブランという月の光が、地に堕ちた星にそっと寄り添い、再び空を目指す勇気をくれるから。 ――そして星は、長い長い黄昏の果てに、再びその輝きを夜空に刻みはじめるのだ。