教会の中は、ささやかな祝祭の空気に満ちていた。 飾り付けられたテーブルには、不格好ながらも愛情のこもったケーキ。 カボチャのスープや甘いクッキー、色とりどりの果物が並ぶ。 聖心とミコトは並んで台所に立ち、聖心はぎこちない手つきで懸命にクリームを塗っている。 ミコトは手慣れた様子で調理を進め、聖心にときおり短く助言を挟む。 何を言われたのか膨れっ面の聖心を見て、ミコトが微かに笑った。 「……」 少し離れた椅子に腰かけ、ブランは静かにその光景を眺めていた。 それは本来なら、見ていて胸がじんわりと満たされるような、そんな景色だったはずだ。 けれど、ブランの心に広がったのは、温かさとは違う感覚だった。 小さく、鈍く疼くような痛み。 なぜだろう―― 言葉にはできない違和感が、心の片隅にじっと巣食っている。 まるで、自分だけがこの空間に馴染めずにいるような。 どこか、遠い場所に取り残されているかのような――そんな錯覚。 ブランはそっと椅子から立ち上がる。 リビングの賑わいから、音もなく一歩、また一歩と離れていく。 誰にも見つからないように。 できることなら、この小さな違和感さえ、悟られないように。 背を向けた瞬間、ふと胸が詰まる。 呼び止める声を期待してしまいそうな自分が、怖かった。 それでも振り返ることなく、静かに教会の扉に手をかけ、ブランは夜の冷たい空気へと身を投じた。 外に出ると、夜の空気は想像以上に冷たかった。 吐く息さえも、すぐに白く滲んで消えていく。 教会の裏庭には誰の気配もなく、 ただ高く澄んだ夜空を彩るように、輝く星々が瞬いていた。 白い光は、どこまでも静かで、どこまでも遠くて。 手を伸ばしても、決して届かない。 ブランは、ゆっくりと顔を上げた。 月を、星を見上げながら、胸の奥を這うような寒気にそっと身をすくめる。 それは、ただ夜が冷たいせいではない。 もっと奥深い、魂の根幹から滲み出るような感覚だった。 目を閉じる。 途端に、白い霧が脳裏に蘇った。   あの時、耳にした声―― 『君は――そう遠くないうちに、消える。安里結愛の手によって』 『感じているはずだよ。得体のしれない寒気と共に、そのデジコアから君の魂(データ)が漏れ出ているの。わたしにも分かるもん』 『詳しい原理は省くけど、その原因は安里結愛だよ。つまり――彼女はまだ生きている。』 『このままだと君は、自分の記憶も、居場所も、意志も、全てを存在ごと奪われて……消えてしまう』 『だから、君が消えない道はたったひとつだけ。――元凶の安里結愛を探し出して、殺すしかない』 『でも君に、果たしてそれができるのかな?聖心ちゃんの大事な大事な、想い人を』 優しげな響きと裏腹にその声が告げたのは、どこまでも冷たい絶望だった。 「――っ!」 胸の奥で、きゅうっと締めつけられる感覚が広がっていく。 全てを理解した今なら,分かる。 デジコアの奥から、じわじわと何かが剥がれ落ちていく感覚。 魂の一部が、記憶のかけらが、音もなく溶けていく。 焦りが、胸をきしませた。 このままでは、すべてが失われる。 聖心との時間も、自分の居場所も、何もかもが。 ブランは、震える手で胸元を押さえた。 何とかしなければ。 この手で、自分自身を守らなければ。 魂が消え去る前に。 全てを失う前に。 ――そして、もう一つ。 胸の奥に蠢く感情、それを無視することはできなかった。 もし、安里結愛が本当に生きているのだとしたら。 彼女は、聖心をひどく傷つけたまま、何十年もの間、ただ黙っていた。 聖心が苦しむのを見続けながら、何ひとつ手を差し伸べなかった。 そして今になって、何もかもを奪いに来るというのか。 ブランの胸の内にまた新たな、初めての感情が芽吹いている。 それは黒く昏い、憎しみだった。 聖心の痛みを知りながら、その全てを踏みにじろうとする存在への、どうしようもない拒絶。 「だからわたしは、安里結愛を――」 ――あの声の言うように、殺すというのか。聖心の大切だった存在を、この手で? 震える指先を、ブランは必死に握りしめる。 自分でも気づかないくらいに、細かく震えていた。 これは、間違いなく『悪いこと』だ。 これまでのブランのデジ生、聖心との輝かしい日々がもたらしてくれた、ブランの大切な価値観。 その全てが、今の自身の思考――これから行おうとしている愚行を、『悪』だと責め立てる。 ――そんな自分が、聖心の隣に、立っていていいのだろうか。 考えれば考えるほど、胸の中に黒い穴が広がっていく。 その底には、何もない。 ただ、冷たくて暗い空虚だけがあるだけだった。 ――それでも。 目を逸らしていれば、もっと酷い未来がやって来る。 それだけは、はっきりと分かっていた。 「……わたしは」 夜に溶けるように、小さな声が漏れる。 どんな選択をしても、誰かを傷つけてしまう。 どんな未来を選んでも、後悔はきっと消えない。 それでも、選ばなければならない。 聖心を、守るために。 この、自分自身の存在と居場所を、守るために。 例え、それがどれほど冷たく、苦しい道でも――、 もう二度と、あの頃の笑顔に戻れなくなったとしても。 ブランは、胸の中に生まれた小さな決意を、静かに抱きしめた。 誰にも知られないように。 聖心にさえ、気づかれないように。 ――背後から、微かな音がした。 扉が開く気配と、誰かが名前を呼ぶ声。 ブランは、ゆっくりと振り返る。 扉の向こうから、オレンジ色の光がこぼれていた。 そこには、変わらない日常が広がっている。――それこそが、ブランが守りたいものだった。 だからこそ―― 「あっ、聖心!」 大切なものを壊さぬよう仮面をかぶり、そっと微笑む。 ――その笑顔の奥に、痛みをひとつ隠したまま。