『星に手を伸ばして』 *** ──例えるなら彼女はきっと、夜空で輝く星のようだった。 *** 今になって思う。というか、今だからこそ思える。 当時の安里結愛という少女は、十年にも満たない人生経験で『悟ったふり』をしていた。 ふつう。 平凡。 どこにでもいる。 なんて陳腐な言葉を、まるで自分を説明する便利なラベルのように内心で貼り付けている。 そんな小賢しくて、ひどく可愛げのない子供だったと思う。 運動そこそこ、勉強そこそこ。いや算数が苦手だったからそれはちょっと嘘だ。 芸術面? 絵を描くのは好きだったけれど、誰かに褒められた記憶はない。 目立たず、沈まず、ちょうどクラスの真ん中あたりで収まる存在。 『わたしは“ふつう”だから!』 ──なんて、わざわざ口に出すほどイタい子ではなかった。たぶん。 ただ、心の奥底では、彼女はそう思い込んでいた。そうやって納得していたのだ。 突出した才能なんて持っていない。 誰かを驚かせるようなことなんて、できない。 漠然と、自分はいわゆる『特別』な存在にはなれないのだろうという、ある種の諦観がきっとそこにはあった。 とはいえ、それが不幸なことだとは考えなかった。 学校に行けば、100人!……とまではいかないけれど、仲のいい友達がいて。 家に帰れば、大好きで、優しい両親が待っていてくれる。 そんな毎日を、彼女はわりと気に入っていた。 それがかけがえの無い、取り返しのつかない大切な日々だと知らずとも、繰り返される営みに概ね満足していたのだ。 強いて一つ、悩みを上げるとするならば…… 『上野……聖心ちゃん、かぁ』 その名前を口にするとき、心の奥がひときわ波立つのをいつも感じていた。 隣の席のクラスメイト、上野聖心。 作り物めいて整った顔立ちに、左右でお団子に纏められながらもなお、肩まで伸びる艶やかな黒髪。 学業、スポーツ、文学、芸術に至るまで。 幼きながらあらゆる分野で突出し、他と一線どころか十線ほど画して圧倒的な煌めきを見せる存在。 他の子たちが一歩引くのも無理はない。 だって、そこにいるのは“神童”なんて言葉すら追いつかない、個としての一つの完成品とさえ思えるような存在だったのだから。 そんな隔絶した……そう、夜空の星のような彼女が、わた、安里結愛といえば、ただただ気になって仕方がなかった。 彼女のすべてが眩しくて、目で追わずにはいられなかったのだ。 ──届かないものにこそ心焦がれるのは、そんなにおかしいことだろうか。 でも、当時の安里結愛は思いもしなかったのだ。 まさかあの日、その眩しすぎる光が、自分の人生と交わることになるなんて。 *** きっかけは、ほんの些細なことだった。 学校から帰るのが少し遅くなった。ただそれだけ。 教室で忘れ物を探していたのか、誰かと話し込んでいたのか、それは今となってはもう思い出せない。 夜の帳が落ちる前に、何とか家に帰ろうと足早に学校を出たことだけは記憶にある。 けれど、気づいたときには空が妙に暗くなっていて、まるで演出のように霧が立ち込めていた。 最初は、ただの“天気の変化”だと思っていた。 都会じゃ霧なんて珍しくもないし、ちょっと濃い霧に足を踏み入れたくらいで怖がる性分でもなかった。 ――でも、数分後には、それが間違いだったと思い知らされたのだ。 まず、街の音が消えた。 車のエンジンも、周囲の足音も、人の声も、なにもかも。 次に、風が止まった。空気がぬるく、重く、息苦しい。 「……なにこれ……」 そう呟いたとき、安里結愛はすでに、日常の外側にいた。 前も後ろも分からなくなり、道は溶けるように消え、空すら霧の白に飲まれていた。 ――そして、その“白”の中から、それは現れた。 黒い。 大きい。 形がわからないのに、いるだけで息が詰まるほどに“異質”で。 目のようなものが、こちらを見ている。 腕のようなものが、ずるりと地を這っている。 影の塊のようで、でも生き物のようで、いや、あれは──きっと“存在”自体が間違っていた。 思考が止まり、体が固まる。 恐怖というには漠然としすぎている。 けれど、本能はちゃんと察知していた。 “あれはダメだ”と。 逃げろ。逃げろ。逃げろ。 言葉にならない声が脳内を埋め尽くす。 「いや……いやだ……!」 恐怖を振り切るように走り出す。 でも、見えるはずの道はなく、走れば走るほど、世界は白くぼやけていった。 霧の向こうから、確かに“それ”が迫ってくる気配があった。 どこに向かって走っているのか、もう分からない。 ただ、何かに追いつかれる。捕まる。 きっとそれだけで終わってしまう。 そんな予感が、すぐ背中まで来ていた。 「助けて……助けてよ……!」 限界だった。足がもつれ、恐怖が支配するその瞬間―― 「下がってて」 鈴のような声が、耳を打った。 次の瞬間、世界に白銀の光が迸り、霧が割れ『それ』が弾け飛ぶ。 上野聖心。 あの星のような存在が、現実に、目の前にいた。 「み、聖心ちゃん……」 その姿を見たとき、心が震えた。 あの怪物は!?とか、その漫画みたいに輝くオーラは何!?とか、些細な疑問を全部吹き飛ばして、口が勝手に動いた。 まるで、自分だけのヒーローみたいだった。 星が落ちてきて、自分を選んでくれたような、そんな気さえしていた。 けれど―― 「……あなた、誰?」 「クラスメイトだよ!?隣の席の!?」 その一言は星の光よりも冷たかった。 淡々とした表情。何の感情も浮かばない瞳。 名前も、顔も、覚えられていなかった。 隣の席にいた時間すら、まるで存在していなかったみたいに。 「ごめんなさいね。興味、なかったから」 ――その時、安里結愛は胸の内から初めて、あふれんばかりの感情の奔流を感じた。 星は星のままだ。 どれだけ見上げ続けても、こちらを見返すことなんてない。 「ぜ……」 そんなことは分かっていた。 弁えていた。 この世の何よりも、誰よりもそうだ。 でもこの時は、それが何故かたまらなく悔しくて。 ――理由は、今ならわかる。 だからこれは、きっと彼女の2度目の産声だった。 「絶対名前、覚えてもらうんだから――!!」 「??」 霧が晴れ、すっかり暗くなった住宅街に少女の声が響き渡る。 『上野聖心』、そして『デジモン』。 見上げることしかできなかった“ふつう”の少女は、ほんの一歩だけ、そんな星々の軌道に触れようと手を伸ばす。……それがきっと、すべての始まりだった。 *** 『聖心ちゃん!!今日こそお話してもらうよ……!』 『……しつこいわね』 ――そしてここから紡がれるのは 『……あれ?ここはどこ?わたし達、一体どこに……?』 『……そんな、もしかしてここって、デジタルワールド?』 ――星に憧れ、 『今日は危ないところを助けてくれてありがとう……その、結愛ちゃん』 『!?――聖心ちゃんが名前を呼んでくれた!!!』 ――星になろうと星へ手を伸ばし、 『結愛ちゃん…待って……待ってっ……!』 『……聖心ちゃん』 『聖心ちゃんはこれまで一杯、わたし達を守るために頑張ってくれたよね。ずっとずっと、前に出て傷ついて苦しんで、どんなにボロボロになっても……』 『わたしはそれを後ろから見ていることしかできなくって……とっても心苦しかった。』 『…きっとね?次はわたしの番。実はちょっと嬉しいんだ。いつもの守られているだけじゃない、今度こそ聖心ちゃんを守れるわたしで在ることができるんだって。』 『だから今はそこでゆっくり休んで……泣かないで』 『大丈夫、大丈夫だよ。きっとわたし達が全部終わらせる。この悪夢から目覚めたら、また幸せな毎日が聖心ちゃんを待っているから』。 『ごめんね。そのためにわたし達、行ってくるよ。……さよなら。聖心ちゃん。』 ――そして最期に星を堕とす。 『かみさまなんて……いない』 ――そんな愚かなユメのお話。