① 「最悪…」 最悪すぎて、口に出ていたかもしれない。慌ててチラチラと周りを確認する。幸い、誰にも聞こえていなかったようだ。 改めて前、すなわち黒板を見る。そこでは何度見ても、文化祭のクラスの出し物が決定していた。お化け屋敷も、演劇もあったのに、最も多くの票を集めたのは… 「コスプレ喫茶…!」 立希は苦々しげに呟く。重ねて幸いなことに、この声も、誰にも聞かれずに済んでいた。 (注:本怪文では作者の判断で時系列をブシドー的にデコンストラクトし花女にもう一度文化祭をもたらした) 何もできずにその時間は終わってしまった。呆然と座る立希。接客というだけで嫌すぎるのに、コスプレ喫茶。なんとか接客だけは回避しなくてはいけない。しかし回避などできるのか。最近立希は三角・八幡のタレントコンビとセットにされているようで、問答無用で客寄せパンダの仲間入りをさせられてもおかしくなかった。それを迷子の連中に見られでもしたら…恐るべきピンク色の人影が頭をよぎる。恐ろしい。 うんうん悩んでいると横から「作戦会議をします」と声が聞こえてきた。心の底から無視したかったが、一応声のした方に顔を向けると、海鈴だった。その後ろには困惑気味に笑う初華。「さぁやりますよ。こちらへ」海鈴が手を取って引いていく。振り払っても良かったが、海鈴もこの状況をよしとしないのであれば、解決の糸口が見つかるかもしれない。立希は一縷の望みをかけて、初華と共に海鈴に中庭へと引き摺られていく。立希はこんなことをしているからセットにされることに気がつけなかった。 「大変遺憾です。コスプレ喫茶になってしまうとは」 「…海鈴と意見が一致するのが遺憾だけど、そう思う。勘弁してほしい」 「私は別に大丈夫なんだけど…」中庭に三人きり、憤懣やる方ない様子のふたりに対して、初華は苦笑いしていた。海鈴は初華を無視した。 「やはり立希さんもそう思いますか」 「当たり前でしょ。ハァ…コスプレで接客とか」 「私のコスプレ姿をお客さんに見せたくないのですね」 「違うけど」 「な、違うんですか。そんな」立希の無慈悲な発言に海鈴が狼狽えた。逆になぜそうだと思っていたのだろうか。「私は立希さんのコスプレを衆目に晒すのも嫌ですよ!」 「あそう…」少し利害の一致が見られたが、立希は黙っていた。 「た、立希ちゃん愛されてるね!」初華がフォローを入れる。しかしそれは海鈴の矛先を自分に変える悪手だ。 「三角さんも、良いんですか?メイド服やら執事服を着なければいけないんですよ?そしてお客様にご奉仕を。これは豊川さんへの裏切りですよね?」 「え…いや…仕事でもそういう服は着るし…」 「わかっていませんね」海鈴がわざとらしくため息をつく。「仕事と文化祭は、まるで違います。例えば家でメイド服を着るとき、お金をもらっているから着ているのですか?」 「ち、違うよ!さきちゃんが着て欲しいって言うから着てるんだよ!」初華は慌てて言う。 「は?祥子、三角さんの家でそんなことしてんの?」立希が口を挟んだが、海鈴はこれも無視した。 「それと同じですよ。仕事でもないのに着るということは。まさにメイドが二人の主人に仕えるようなもの。避けられるリスクを取ったことで、信用がみるみる減っていき…」海鈴がずいっと顔を出す。 「そ、そんな…まさか…」 震える初華に、海鈴は「そうです」と断言する。「浮気になります」 「そんなわけないから」耐え切れなくなって立希がツッコむ。「三角さんもこんなの真に受けなくていいよ」 それを聞いた海鈴はムッとして言った。「では立希さん。もし高松さんがメイド服を」 「燈はそんなの着ないから」即答。初華が「早い…」と呟く。 「…では千早さんが明日、別のバンドにヘルプに行ったらどう思いますか」 「は?うちの練習ほっぽってってこと?」 「その通りです」 「そんなの許すわけないでしょ。アイツが一番練習必要なんだから」立希は脊髄反射で答える。 「三角さん聞きましたか?」海鈴は得意げに初華に言った。「立希さんだってああ言っておきながら、浮気を許す気はないようですよ」 「う、浮気は困る…」詭弁に嵌められた初華はオロオロと頭を抱える。「なんとかしなきゃ!」 海鈴は人を巻き込んででも絶対やりたくないらしい。こんなところでぐだついていてもどうにもならないだろうに、巻き込まれる側は毎度たまったものではない。立希も海鈴に負けじと、自分だけでも助かろうと策を巡らせた。「そんなこと言っても、今回のこれ、海鈴と三角さんにメイドとか執事やらせたいから決まったようなものじゃないの。ふたりはやらなきゃでしょ」 「か、彼女がいるからできません!って言う…!」初華は自分で言って照れている。 「…アイドルがそんなこと言っていいの…?」 「私も言います。立希さんという彼女がいるからできませんと」 「言ったら絶交する。対抗しないで」 立希は話しながら、ひとつ疑問が浮かんできた。初華の話は理屈が通っている。海鈴に騙されて、祥子への操を立てようとしているのだ。しかし、海鈴はなんだというのか。メディア露出は多く、少なくとも見たところはあんなにもノリノリで出演しているのに、コスプレ喫茶ごときで嫌がるのか。ここは明らかにしなければならない。 「海鈴またなんか隠してるでしょ」 「え!?隠してません」嘘だ。 「じゃあなんでそんなにコスプレ喫茶嫌なの。この前も執事の格好してたじゃん」 「うううう海鈴ちゃんも浮気!?」初華は錯乱していた。 「全くの言いがかりです。メイド服が嫌なんです。趣味ではありませんから」 「絶対それだけじゃないでしょ」海鈴の隠しごとを暴くべく、ここで伝家の宝刀を取り出した。 「あーあ、本当のこと言ってくれないから信用ならないというかー」 海鈴は「グッ!」と毒を盛られたような声をあげて、苦しみ始めた。初華が心配そうに見ている。しかしやがて観念して話し出した。 「母が…来るんです」 「…は?」 「止めたのですが、多分来ます。…これが困ります」 「なんで困るの?」 「とにかく困ります。」初華の質問はまた無視された。「この前仕事で執事服を着たので、次はきっとメイド服です。私は顔がいいので、似合うでしょうし。」 「…」 「…これは冗談ですが、そうなってから断るようでは、信用に関わります。それではメイド服を着る他なくなります。母の前で。苦しいです」 「えぇ…しょうもない…」立希は思わず声に出していた。「海鈴さお前、お母さんとか、家族とは仲良くした方がいいよ?」立希の頭にチラつくのは姉の顔。軽い気持ちで初華にも話を振る。「ねぇ、三角さん」 「うん…そうだね…家族とは…仲良くしないと…」途端に初華がしょぼついた顔になり、サイズがしおしおとコーギーくらいに縮んでいく。 (え?私また地雷踏んだの?) 中庭が混沌としていく。三者三様のくだらなすぎる思惑が渦巻きながら。 「立希さん。立希さんだけのためなら、メイド服でもなんでも着ますよ、私は」 「誰もそんな話はしてない」 「あ、さきちゃんに浮気にならない衣装がうちにないか聞いてみようかな!?」 「は?祥子って三角さんの家に衣装置いてんの?」 「浮気にならない服とはなんですか?」 「え、え、えっちじゃないやつ…?」 「…え?待って、祥子にどんなメイド服着せられてるわけ?」 当然その日は何も解決せず、解散になった。この三人の会合が、クラスメートに目撃されていたのは、また別の話。…とはならず、仲良し三人組のイメージはより強固になっていき、そのことが立希をさらに追い詰めていくのであった。 ② 【前回のあらすじ】 文化祭でのクラスの出しものがコスプレ喫茶になってしまった1Bバンド三羽烏。彼女たちはコスプレ接客を阻止するために結託する。 (注:本怪文では作者の判断で時系列をブシドー的にデコンストラクトし花女にもう一度文化祭をもたらした) 「やりました。これで解決です」 中庭作戦会議第二回。海鈴が得意顔でふたりに告げる。その行動力で、一体何を成し遂げてくれたのだろうか。 「なんかあったの」「なんとかなったの?」立希と初華が神妙な顔で報告を待つ。 「コスプレ喫茶での接客を回避できそうです。担当の方々は渋りましたが、条件を取り付けて、話をつけました」担当者が渋るのも当たり前だ。あのドロリスとティモリスをみすみす逃すことになるのだから。しかし、流石海鈴は腐ってもアベムジカのキーマンだった。 「で、その条件って何なの?」 「それは」海鈴はタブレットを掲げた。「クラスの宣伝を目的とした音楽活動…文化祭のステージでの、我々3人によるバンド演奏です」 「…はぁ?」 「花女1-B…スリーピースバンド結成ってことだね!」思考が停止した立希に対して、初華は声を弾ませていた。 「え、三角さんなんでノリノリなの?」 「いやぁ、こういうのも良いかなって…」 3人でバンドを組む。なんと突拍子もない…と思ったが、そうでもない。初華と海鈴は今をときめくアベムジカのメンバー。そしてそれと一括りにされがちな立希。彼女も一応それなりのバンドのメンバーと考えれば、確かに理に適った取引だった。 「ふたりとも良いですね?やりますよ」 「私はいけるよ!」 「う、う〜ん」立希は答えを渋る。彼女の心配事はひとつである。プロとして一線で活躍する海鈴たちと一緒にできるものか。長年かけて育ててきた劣等感がじくじくと刺激される。 「大丈夫ですよ立希さん」海鈴が立希に優しく微笑みかける。「衣装はこちらで選んでいいらしいので」優しげなだけでピントはズレていた。 「…はぁ。わかった…やる…」立希は色々なものを天秤にかけて決断した。 「やったぁ!」初華はなぜかテンションが高い。やはりステージで歌うのが好きなのだろうか。海鈴はその横で小さくガッツポーズをしていた。 「では決まりですね。幸いにして構成はギター、ベース、ドラムでバランスが取れています。曲を決めて少し練習すればいけるでしょう」 「そうだね。休み時間とかどこか使わせてもらえたら、大丈夫そうだね」 問題など無いといった様子でデバイスを触るふたりを見て、立希の心はまた曇った。掛け持ちの傭兵に、人気グループの顔を二足の草鞋でこなすアイドル。この先、なんとかついて行ければよいが。 「では曲をどうするかですが…」海鈴はタブレットをから目を上げて、立希の方を見た。「立希さん」 「何?」 「曲を書いてくれませんか?」 「はぁ?」立希はいつにも増して攻撃的な声を上げた。「何で私なの?別にカバー曲でいい…というか、三角さんがいるじゃん!確かsumimiで作曲もやってるんじゃないの?とにかく私じゃないでしょ」いつか愛音に聞かされたトンデモ話だ。初華が照れる。しかし海鈴はひるまない。 「ちゃんと理由があります」 「何?」 「シンプルな理由です」 「早く言って」 「私が、立希さんの曲で、やりたいからです」 「はぁ〜?…それでもいやだけど」 「やりたいです。やりたい。やらせてください」 「お前っ、縋りっ、つくなっ!」 「お願いです。私のために曲を書いてください。お願いします」 「お前のため!?クッ、本性を現した…」 海鈴のあまりに情けない懇願に、見かねた初華も口を出す。「や、やってあげたら…?立希ちゃん…」 「だから私、三角さんみたいにはできないんだって。迷子だけでも精一杯なのに」これは本音だ。ただ初華には全く共感されそうにない。「わ、私よりさきちゃんの方がすごいよ」その言葉も全く慰めにはならなかった。 「では」海鈴はムスッとして言う。「歌を書いてくれませんか?」さも妥協の提案とでも言いたげだった。 「もっとやらない!歌こそ三角さんでしょ」 「三角さんは豊川さんのことを歌った歌をAve Mujica外で使い回している疑いがあるそうなのでダメです」突然の流れ弾に初華が狼狽える。「えぁっ、そんなこと誰が」 「祐天寺さんです」それを聞いた初華は諦めたように肩を落とした。ありそうな話だ。立希はフォローできなかった。ゆえに海鈴の攻勢は止まらない。 「どうして私のお願いを聞いてくれないんですか」 「お前のお願いだから」 「あ、では高松さんに歌を書いていただいたら、曲を書いてくれますか?」 「ハァ?燈を変なことに巻き込もうとしないで」 「へ、変なことって…」初華が苦笑いする。 「大体、そうなったらもう私たちの曲じゃなくてほとんど迷子の曲でしょ」 立希がそう言った瞬間、初華のサイズがしょもしょもとサモエドくらいに縮んでいく。 (マジでどこに地雷あるわけ??) 結局、作曲は初華と立希の共同になった。(ここで何かを掴んで迷子に生かす…!)立希は決意を固める。しばらくはまたカフェイン漬けの日々になりそうだ。 「えへへ、よろしくね」初華が人懐っこい笑顔を向けてくる。(ウッ!)この顔にどれだけの人間が虜にされてきたのだろうか。立希は思わず顔を背けた。目を背けた先では、海鈴がジトっとした目線を立希に向けている。(何なの…?)彼女の奇行を暴けば、この顔に虜にされた人間をどれだけ解き放てるのだろうか。 「まぁコトが決まっていくのは良いことですね」海鈴が言う。「次が一番大事なことなのですが」 「大事なこと?」 「名前決めです」 「どうでもよくない?」 「そんなことないよ!」2対1だ。立希は諦めた。 「案1です」海鈴はタブレットを見せる。「りっきー&うみりwithういか」 「…」「…」 「案2です」タブレットをフリックする。「ダイアモンドジュエルズ」 「…」「…」 「「…」」 「あの冗談なのですが」 「えっあっ、そうだよね、アハハ」初華の笑顔は引きつっていた。海鈴の日頃の行いのせいだったので、立希はまたフォローしなかった。 「三角さんは何かありますか?」 「えーと…『Albireo』なんてのはどうかな?はくちょう座の、くちばしのところの星なんだ。夏の大三角の真ん中にあるから、3人で1つってこと!あと二重星だから、私が三角で海鈴ちゃんと立希ちゃんが2つの星っていうのもありかな。お似合いだしね!それからはくちょうは神様が変身して好きな人に会いに行ってる姿なんだ。それに天の川を渡るカササギの姿が…」 「一度止まってください」海鈴が止めた。「また私信ですよね?」 「ち、違うよぅ」 「バンドの私物化はよくありませんね」 「それお前が言うの?」 その日はまた何も決まらなかった。しかし立希は名前などよりも、練習が不安だった。この2匹の音楽犬と上手くやっていけるのだろうか。それを考えるのは、燈のときとは違う緊張感であった。 ③ 【前回のあらすじ】 文化祭でのコスプレ喫茶接客回避のために3Pバンドを結成した1Bバンド三羽烏。曲作りの道筋はできたが、前途多難である。 (注:本怪文では作者の判断で時系列をブシドー的にデコンストラクトし花女にもう一度文化祭をもたらした) 「すごくいいですね」 初華と立希の作った曲を見て、海鈴はご満悦だった。立希も多少は報われたと言うものだ。 立希と初華の奇妙な共同作曲は、立希にとっては貴重な経験であった。曲作りの段階でも初華はやはり受け身だった。しかし、立希から求められると曲が湯水のように湧いてくる。逆さまにすれば中身が出続ける、魔法の空箱のようだった。 (野良猫よりもありがたいかも)実際彼女から受けるインスピレーションは、明らかに楽奈のものより心臓にも健康にも優しかった。問題があったとすればひとつ。 「立希ちゃん!がんばろうね!」 そう言って、1日1本お供えされる紙パック。これ自体ではそこまででもない。しかしなぜか対抗した海鈴がさらにもう1本増やした。合わせると問題だ。このままでは立希がジュースの神になる。いつかは止めなければならない。 以上のようなことはあっても、曲はきちんと仕上がった。その後に、一応初華に歌をつけてもらった。歌うも歌わないも初華次第なのだが、立希が瞬きしているうちに歌詞は出来上がっていた。 そして始まる、中庭作戦会議第三回。海鈴はタブレットとお見合いしながら、頭の中で曲を流し歌を吟じていた。 「お二方とのバンドとも違う、優しい曲です」 「折角なら新しいことやりたいでしょ」立希も少し得意げだ。 「歌詞もいいです。特にこの「生きている証だからとびきり泣いていいよ」と言うところが良いですよ」 「えへへ、そうかな。そこは泣いてる海鈴ちゃんのことを思い出して書いたよ」 「前言を撤回します。私信だらけの駄作です」 「良かったじゃん海鈴。歌にしてもらえて」 立希はニヤニヤと笑う。海鈴は何か言いたげな憮然とした顔だったが、それ以上何も言わず引き下がった。三者ともそろそろ分かってきている。3人いるときは2人の側が強いというシンプルな真理があるのだ。 「まぁ良いでしょう。あとは練習あるのみです。…ですが、まだ決まってないこともありますね」 「名前のことなら後でも決まるでしょ。迷子もなんか土壇場で決まったし」 名前の話題が出ると、初華が得意げに「ふふん」と笑った。そして、スマホを突き出して「名前のアイデア、また色々用意してきたよ!」と言った。残りのふたりがそれを覗き込む。 ふたりは小さな画面と睨めっこをしながら、ボソボソと聞いた。 「…すみませんこれは?」 「これは魔の海域と言われるバミューダにインスパイアされたよ!3人の名前を入れてみたよ!」 「…これなんて読むの」 「これはギリシャ語だね。音楽がロゴスを解体していく様をトリニティのアナグラムで」 「「?」」 ふたりがコンセプトを理解できなかったために初華の全ての案は再び保留となり、結果名前決め自体が再び保留となった。初華はしょんぼりしていたが、立希と海鈴はやはり2人の側が強いと言う信念を強くした。 「名前だけではなくてですね」海鈴は気を取り直したように宣言する。「衣装をどうするかの問題ですよ。一応はコスプレ喫茶の宣伝ですからね」 「ハァ…別になんでも良いでしょ」 「え、え、えっちじゃないやつなら!」 「三角さんもあんまり足元見せない方がいいよ」立希が忠告する。「それ以外なら何でも持ってくるよこいつ」 海鈴が「ムムッ」と言って目つきを鋭くした。「心配しなくてもえっちなものにする気はありません」 「当たり前だけど」 「例えばこれはひとつの案なのですが」海鈴は足元の袋をガサガサと開け始める。立希が今まで不自然に思いながらも、あえて触れずにいた巨大な袋だ。無かったことにはできなかったようだ。海鈴が「立希さんこれを」と言って中から何かを取り出した。 「…何これ」 中から出てきたのは、破廉恥なセパレートタイプのメイド服だった。海鈴は真顔で「サマーメイドコーデです」と言った。 「これを着てくれませんか?」 「え…?嫌だけど…」 「…そうですか。まぁそうだろうと思いました」海鈴はまたガサゴソとメイド服をしまった。 「え?え?何?何の時間?」 「いえ、万が一を考えまして。実物があればなんとか押し切れないかと」 「その万が一でその袋持ってきたわけ?」 「そうですけど」 「お前は今のがえ、えっちじゃないやつだと思ってるの?」 「…まあそうなりますね」 「…」あまりの蛮行に立希は言葉を失って、初華に助けを期待した。見ると、初華は、悪びれもしない海鈴の横で、目をまんまるにして固まっていた。「…三角さんどうしたの?」立希が尋ねると、初華は我に返ってもじもじと答えた。 「あ、いや…うちにあるメイド服と全く同じだったからびっくりしちゃって…」 それを聞いて次は海鈴と立希の方が固まった。 「…祥子…嘘…でしょ…」 「…立希さん…やっぱりこれ着なくていいです…」 「………いや最初から着ないけど」 初華はきょとんとしている。立希は、別に2人のほうが強いとは限らないと言うことを発見した。 ④ 【前回のあらすじ】 文化祭でのコスプレ喫茶接客回避のために3Pバンドを結成した1Bバンド三羽烏。無事曲が完成したが、衣装が決まらない。 (注:本怪文では作者の判断で時系列をブシドー的にデコンストラクトし花女にもう一度文化祭をもたらした) 立希はじっくりと考える。ここで間違えてはいけない。今回ばかりは自分の力でどうにかなることなのだ。もう一度確認しよう。今日決まったことを。 「衣装はそれぞれで用意したものにしましょう。ある程度バラバラな方がそれらしいでしょうし。とりあえず、次の練習のときに持ってきてください。まあ、普段と違う服装ならば何でもいいですよ。ただし持ってこなかったらサマーメイドコーデです」 この約定により、立希には絶対に衣装を持っていく必要が発生した。しかし問題はここからだ。まずは罠を回避する必要がある。一番近く、一番簡単だが、一番頼ってはいけないものを外すのだ。 (ANON TOKYO…) 口にするだけで目眩がしてくるこの名前。千早愛音に頼ったら、一体どうなるか。想像してみる。 まずは騒音公害から始まる。「えーっ!りっきーコスプレバンド〜?」すると仲間がわらわらと集まってくる。「立希ちゃん方針転換かな〜?笑」「きっと見に行きますわよ?笑」「立希…情けない…」「まっちゃ」「ぉぁ…無様…」 「と、燈!違うから!」大声を出して腕を振り回し、ニセの幻影をかき消す。「いや燈はそんなこと言わない!」次は頭をブンブン振る。別に燈以外も言わない。立希は完全に錯乱していた。 Ringの制服?羽沢珈琲店?いやそんなのはダメだ。職業倫理違反だ。でもメイド服は絶対嫌だし、パンダのパジャマはもっと嫌だ。自分の気に入っている私服を着ていくのは流石に違う気がする。パンクな服で行ったら海鈴との匂わせになりそうで避けたい。様々な考えを頭が駆け巡り、最終的にはいつも通り正解かもわからない答えを出した。 そして練習日。練習部屋に行こうとすると海鈴が教室から消えていた。 「アイツどこ行った?」 「先に練習部屋にいるのかも…?」 仕方なく、立希と初華は並んで練習部屋に向かった。立希には初華とふたりきりが未だに少し慣れない。廊下を歩いていると、時折周囲から視線を感じた。海鈴と歩くときもたまに感じるものだったが、初華へのそれはもっとじっとりとした視線のような気がした。 「三角さん、アイドルってきっと大変だよね」 「え、ええっ。いきなりどうしたの立希ちゃん」 「いや、一緒にいると、周りから視線感じちゃうから」 立希がそう言うと、初華は照れながら「そんなことないよ」と返した。「もうsumimiもAve Mujicaも落ち着いてるし。みんな見慣れちゃってるよ」 「はぁ…そうかな?」 「うん。クラスのアイドルなんてゴシップみたいなものだし」初華はドライに言う。彼女にも色々あったのだろう。立希は「私には無理だな」と中身の無いことを言った。 「ううん。もし立希ちゃんが視線を感じるなら」初華が悪戯っぽく笑う。「今はみんな、迷子の立希ちゃんに見惚れちゃってるのかもね。…な、なんちゃって。えへへ〜」 (キュン)キュン?キュンではない。(グゥッ!)そうだ。こっちが正しい。この子犬のような顔が立希を苦しめる。初華の音楽を知ってから、こんな顔を見せられたら、立希はどうにかなってしまいそうだった。(助けて燈!)自分が気の多い女だと認めるわけにはいかない。心頭滅却し、煩悩を払う。 (ウワキデスカ)(ウワキデスカ)ぷち海鈴が壁からわらわらと湧き出てきて、立希の背中にまとわりついてきた。肩がズーンと重くなる。 「海鈴もテレビ出るんなら、三角さんのサービス精神を見習って欲しいよ」立希がぼやくと、初華は少し寂しそうに答えた。 「わ、私のも、まなちゃんの受け売りだよ…」 彼女のサイズもちょっと縮んだ気がした。でも肩で喚いているぷち海鈴たちよりはまだ十分に大きかった。(ウワキデスカ)(デルトコデマス)廊下は、いつもより確実に長かった。 立希と初華が練習部屋の扉を開く。部屋に海鈴がいれば、練習が始められる。そしてこの期待はおおむね裏切られなかった。 「お待ちしてました」立希が扉を開けると、少し曇った声が発された。 「…海鈴…お前また…何やってんの?」 声の主にして、そこに立っていたのは、白黒の、パンダの着ぐるみ。パンダ柄の偽ミッシェルだった。他に人影は無い。横にはベースが立ててある。つまりパンダの中身が海鈴であることは疑うべくもない。全く異様な光景だ。 立希の後に続いて部屋に入った初華が、偽ミッシェルを見て「へえ〜海鈴ちゃんの衣装可愛いね」と言った。 「いや三角さん…」衣装として自然に受け入れすぎだ。祥子はこういうのも着せるのだろうか。立希は初華の能天気さに呆れたが、先に海鈴の処理をすることにした。なんでもひとつずつだ。 「海鈴はここでパンダを着る準備してたの?」 「半分正解です。ただこの部屋は今の時間しか取れなかったので、この着ぐるみは体育館に置いておいたんです」 「運ぶの大変そうだね…」 「はい。ですので、着て移動しました」 「それ来て校内を歩いてたの?」 「はい」 「お前それ何にも言われなかったの?」 「生徒会長に声をかけられました」 「すごいね、有名人だね」初華は楽しそうだが、そういう問題ではない。 「権力介入…?」 「いえ、着ぐるみを動かすコツを教えてもらいました」 「は?」立希はそれ以上の追及を諦めた。初華はニコニコして聞いていた。着ぐるみからは感情が読めない。海鈴はなくても読めない。立希はもうとっとと話を進めかったが、先に聞くべきことを済ますことにした。そう、なんでもひとつずつだ。 気になるのは偽ミッシェルの足元に意味深に転がっている板。何かあるのだろう。嫌な予感はするが仕方がない。立希は指差して言った。 「それは何」 偽ミッシェルは「これですか」と言いながら板を持ち上げる。「せっかく校内を歩くので宣伝を、と思いまして」板の表側が見える。そこには「文化祭 3Pバンド結成 ドロリス ティモリス 椎名立希」と書いてあった。 「信用が高まっていきますね」 「おい!何で私だけ本名!?」思わず吠える。 「バンドネームなので理に適っていると思いますが」声はパンダの中から聞こえた。海鈴が大体どんな顔をしているのかわかる。初華が「確かにそうだね」と不必要な援護射撃をした。納得がいかない2対1だ。 「バンドの名前も無しにそんな…」 「名前が決まっていないから書けないのです。決めてないのは連帯責任です」 初華が「もっともだね」と言った。もう黙っていて欲しかったが、彼女の名前案を棚上げした手前、強くは出れなかった。 「とういうかお前」おまけに真実にも気がついてしまう。「さっきの廊下の妙な視線、絶対それのせいじゃん!」 「何のことですか」 「や、やっぱり立希ちゃん人気者なんだよ」初華のフォローはいつにも増して無力だった。 「三角さん。これは人気者ではなく晒し者」 「ふたりで何かあったんですか?」海鈴が意味のわからないところで不機嫌になっている。(ウワキデスカ)(ウワキデスカ)いつの間にか偽ミッシェルの頭の上にぷち海鈴が群れていた。 「勘弁してくれない?」立希は頭を抱えた。 勝手に話は終わりと判断したのか、偽ミッシェルが板を床に伏せた。ぷち海鈴がその頭からこぼれ落ちていく。それから彼女は、横に立ててあったベースを手に取って言った。 「実は着てみて気がついたのですが」 「まだ何かあるの?」 「この着ぐるみではベースは弾けませんでした」 「…今さら?ここまで来て?」 「あ〜確かに」と初華が感心している。感心するような発見ではない。普通は一目見て気がつくはずだ。しかし、確かに立希も言われるまで気がつかなかった。海鈴というのはそれくらい、楽器に対しては信頼のある女で、それが厄介だった。 「なので立希さん代わりにこれ着ませんか?ドラムなら多分できますよ」 「……」 「意外と通気性が高いです」 「………」 通気性はともかく、立希は全身と顔が隠れる着ぐるみは少し良いかとも考えた。しかしすぐに、ついさっき自分の名前を校内に振り撒かれたために、何を隠しても無意味だということに気がついた。初華が偽ミッシェルを撫で回しながら「ふかふかだね〜」などと言っている。立希は、自分も祥子に名前と仮面を貰えば良かった、と思った。 ⑤ 【前回のあらすじ】 文化祭でのコスプレ喫茶接客回避のために3Pバンドを結成した1Bバンド三羽烏。偽ミッシェルが没になり、衣装合わせは難航する。 (注:本怪文では作者の判断で時系列をブシドー的にデコンストラクトし花女にもう一度文化祭をもたらした) パンダ柄のミッシェル、偽ミッシェルが頭を外すと、中から海鈴が出てきた。立希は、少し汗ばんだ艶やかな海鈴を見て、この女に脳みそを破壊された哀れなファンたちに想いを馳せた。立希はいつまでクールでカッコいい海鈴を信じていただろうか。海鈴との記憶と辿ろうとしたが、1週間分くらい遡ったところでうんざりしてやめた。 「これでないとすると、他のコスを着るしかありませんね」 海鈴はそう言うと、教室の隅にあった鞄から、新しい服を取り出して着始めた。それは、毛皮に似た加工を施されたコスチューム。着ている途中で初華が気がつく。 「あ、オオカミだね!」なるほどオオカミだ。最後に耳と尻尾をつけて完成した。立希は初華の勘の良さに驚いた。「ウチにもあるよ!」余計なことは言わないで欲しかった。立希の脳内の祥子カウンターに1つバツがつく。 「いかがでしょうか?似合いますか?」 「すごく似合ってるよ!」 「まぁ…パンダよりはマシなんじゃないの」 「狼は私のキャラと合っている気がします」 「自分で言うかそれ…」 「うんうん、クールな一匹狼って感じだよね」 初華がそう言うと、海鈴が少し悲しそうな顔をした。一匹狼を気取ってる癖に、言われたら悲しむのが面倒な奴だった。しかし、バカバカしいコスチュームの筈ながら、悔しいことに海鈴は様になっていた。メイド服を嫌がりオオカミはいい感覚はよくわからなかったが、実際彼女は何を着ても似合うだろう。絶対に本人の前では言わないが。 「実は」海鈴が鞄を弄る。「頭もあるのですが」リアルなオオカミの頭が出てきた。オオカミの皮を被った人間がオオカミの首を持っている。猟奇的な光景だ。 「お前はなんか被りたいわけ?」 「そういうわけでは」 「それ被ったらなんか別のバンドみたいになっちゃうよ…」 「…確かにそうだ…」 「では没ですか」オオカミ頭をしまう。やはり猟奇的な光景だ。「それでは立希さん」海鈴はそのままさらに鞄を弄る。まだ何か出てくるのか。まるで魔法の鞄だ。立希は嫌な予感がした。 「これを」差し出されたのは赤いコスチューム。 「赤ずきんちゃんだね!」すぐに初華が見抜く。「ウチにもあるよ!」祥子カウンターに2つ目のバツがつく。 「海鈴、一応言っとくけど着ないから」 「…そうですか」海鈴は大人しく赤ずきんをしまった。前のサマメと全く同じで、考えてみると今の全てが無駄な工程だった。 「お前断られるのわかっててなんで毎回色々持ってくるの?」 「いえ、立希さんの万が一には常に備えておきたくて」台詞だけを切り取れば恋人の鑑だろう。ファンにも同じ言葉をかけてやれば良いのだ。「海鈴ちゃんも芸能人だもんね」初華が曖昧に笑ってフォローした。確かにテレビに映る自覚を持てとは言ったが、こういうことではない。 海鈴がムッとして「私は若葉さんの枠ではありませんが」と言っている。 「それは流石に睦に対して失礼だよ海鈴」立希は一応言っておいた。 「なっ、私の扱いは若葉さん以下だと?」 「少なくとも睦はオモシロ人間じゃない」 初華が「ほんとかな…」と呟いた。 「……少なくとも海鈴とは方向性が違う」立希は一応言っておいた。 海鈴は「では次、三角さんのコスチュームを見せてください」と初華にバトンを渡す。 「は、はい」海鈴に促され、初華も鞄から服を取り出す。「これ、さきちゃんに選んでもらったんだけど…と、とりあえず着るね!」初華がボタンに手をかけるのを見て、思わず立希は後ろを向いた。女同士で、そんな必要もないはずなのに、ドキドキしてしまう。後ろを向いてる間、なぜか海鈴は真横で立希の方をジトっと見ていた。せめて前か後ろかのどちらかを向いて欲しかった。 「できました」しばらくすると初華の声が聞こえた。異様に早い着替えと、祥子のチョイスという言葉に、3つ目のバツを覚悟して振り向く。「どうでしょうか?」 「おお」と、思わず言ってしまった。その服は、アベムジカのコスチュームを統合したようなデザインで、シンプルながらスタイリッシュなズボンスタイルだった。左目の下に月のタトゥーシールが貼られている。そして何より、露出も控えめだった。「カッコいい」 「ありがとうございます」初華は平坦な声で言う。「私はAVER。貴女のために歌を歌います」 「三角さん?」 「よろしくお願いします。タキ、ウミリ」 「…なんかキャラ入ってない?」 立希が指摘すると、初華が「あ、あはは」と、ふにゃっと笑い、いつもの雰囲気に戻った。「さきちゃんがこれ着たらキャラ付けしてって言うから」と言ってまた、ストンとテンションを落とす。「天球には星が数多に瞬いています。しかし私が魅せられるのは、貴女という星…」 (もしかして)立希は鳥肌が立つのを感じる。(シチュエーションプレイに巻き込まれてる?)すぐさま、保留にしておいた3つ目のバツをつけた。 海鈴の方を見ると、また難しい顔をして初華劇場を見ていた。「海鈴もなんか言いなよ」 「コスチュームはいいと思うのですが」海鈴が眉間に皺を寄せて言った。「キャラが私と被ってませんか?」 「お前の自己認識おかしくない?」 「しかし台本を書いたときに私の台詞と区別がつきませんよ」 「いや…台本なんか作らないから」 「台本作らないんですか?」 「寸劇やらないし」 「それは…まぁ普通はそうですね」 「サキのバンドが普通ではないと言いたいのですか?」なぜか初華が突っかかってきた。 「ややこしくなるから一回黙っててください。豊川さんのことは今どうでもいいです」 「どうでも…?」 「キャラ被りの方が深刻な問題です」 初華は祥子のことを言われてムッとしているようだった。コスチュームに引っ張られて、人格も少し変わってる気がする。彼女は少し息を吐くと、立希の方に話しかけてきた。 「タキはどう思いますか?」 「どうって…」 初華が声を作る。「私が信用できませんか?」 「フフッ…!」立希は思わず吹き出した。「やめてよ…ククッ…」 「なんなんですか」これは海鈴。 「私を信用してください」こっちが初華。 「ククッ……フフフフッ……フフッ…」これは…立希だ。 「…もしかして私の真似ですか?」 「浮気ですか?出るとこ出ますよ?」 「三角さん!?私をバカにしていますね!?」 「だってさきちゃんどうでもよくないもん!」 珍しく初華が噛みついている。立希は横で笑い転げた。初華の物真似は激似だった。でも立希は喧嘩になる前にふたりを止めなければならない。彼女らにはコミュニケーションのブレーキが存在しないのだ。 ふたりが落ち着くと、「えーとね」と初華が説明を始めた。「実はAVERはもう一個キャラがあるんだけど」 「ならそっちにしてください」海鈴は不機嫌そうに言った。立希としては、これ以上シチュエーションプレイに巻き込まれるのは勘弁だったが、初華劇場が気になるのもまた確かだった。「うん、私も気になる。見せてよ」と言った。 「じゃあ」初華が照れながら咳払いをすると、また謎めいた口上が始まった。 「今宵、月も翳り、僕の身体も、渇きに疼く…」ダンサーの様に歩を進め、狂おしげに空に手を伸ばす。「血…血だ!この呪われた身体が、乙女の血を求めて戦慄くのだ…!」 「ほう、吸血鬼モノですか」海鈴が感心したように呟く。 すると初華はステップを踏み、立希に近づいてくる。「え?」と立希が言うが早く、初華が立希の手を取って背中を抱き、パ・ド・ドゥの姿勢を作った。「え?え?何?」そしてそのまま顔を近づけてくる。 「おお、麗しの乙女よ。その血を、苺よりも赤く、そして甘い血を、僕に」 「ちょっ、ちょっ、ちょっ、三角さん!?」 「どうか今宵も、この古楼に、幾許の癒しを…」 初華と立希の顔はどんどん近づいていく。(マズすぎる)立希の顔が真っ赤になって、心臓がバクバク鳴り始める。(燈がひとり、燈がふたり)煩悩を払うために燈の数を数えるが、燈は世界にひとりしかいない。代わりにぷち海鈴が数え切れないほどやってきた。(((ウワキデスカ~))) 「三角さん何のつもりですか」割って入った本物の海鈴の声で、初華も立希も我に返った。初華がパッと手を離し、魔の手から解放された立希はそのままへなへなと座り込んでしまった。 初華がはにかみながら「ごめんね。いつもこんな感じでやってて」と、申し訳なさそうに立希に手を差し伸べた。 「いつも!?」立希は自力で立ち上がりながら、祥子カウンターにバツを3つくらい同時につけた。 海鈴は鋭い目つきで「まぁ今の粗相はともかく」と言った後、初華に「その吸血鬼のキャラは良かったですよ」と告げた。 「そうだった?さきちゃんはもっと妖気を出してって言うんだけど」 「そんな不気味なもの出さなくていいよ」立希の心臓はまだドコドコ鳴っている。 「では三角さんのコスもこれで決定ですね」海鈴は満足そうに頷く。「やったぁ」初華も嬉しそうだった。人の気も知らず無邪気なものであった。 「しかし…」海鈴は顎に手を当てると、立希のことを見た。またバカなことを考えている顔をしていた。 「私がオオカミで、三角さんが吸血鬼ですか…」 「…またなに考えてんの」 「もしかして立希さんはフランケンですか?」 「そんなわけないけど」聞く価値もなかった。 「さ、さぁ、始まるザマスよ!」 「三角さん真面目にやってください」 「乗ってやれよお前…」 一蹴されて初華がまたしょぼしょぼと縮こまった。海鈴も大概だが、この初華に首輪をつけている人間がいるというのだから、とんでもない話だ。立希はおまけのバツを1つ追加した。 ⑥ 【前回のあらすじ】 文化祭でのコスプレ喫茶接客回避のために3Pバンドを結成した1Bバンド三羽烏。海鈴と初華の衣装は、オオカミと吸血鬼AVERに決まった。 (注:本怪文では作者の判断で時系列をブシドー的にデコンストラクトし花女にもう一度文化祭をもたらした) 「三角さん何してんの?」 「ほえふへはほうはいいははっへ」 初華が口の中に何かを入れている。何かと思っていると、初華が「じゃーん」と披露した。それはちょこんと飛び出た牙だった。「吸血鬼でいくならこれもつけないとね」初華は胸を張る。 「こ、凝ってるね…」立希の耳には、初華の用意の良さの裏にいる何者かの高笑いが聞こえた。海鈴が初華の牙をまじまじと見つめて「なるほど。これは痛そうですね」と言った。なんともズレた感想だった。 「いや海鈴。別に人に噛みつくわけじゃないから」 「…」初華が目を逸らした。 「…噛みつくわけじゃないよね?」 「……」 初華が笑って誤魔化そうとしている。たぶん誤魔化せてはいなかった。立希は疑いが確信に変わる前に話を変えたかったが、そうする前に自分の歯をツンツンと触っている海鈴に声をかけられた。 「オオカミにも牙が必要だと思いますか?」 「いらない。見ればオオカミってわかるから」 「立希さん」海鈴が歯を見せて挑発的に笑う。「もしかして噛みつかれるのが怖いのですか?」 「いつもお前に散々噛みつかれてるよ」 「ほう、詩的ですね」 「えっ、えっ、えっ」 「三角さん。違うから、ちょっと大人しくしてて」 「まぁその意味で噛みつくのは立希さんの方ですかね」立希が海鈴をどつく。「痛いです」 「噛み跡って中々消えないから注意した方がいいよ!」三角初華のありがたい忠言が飛んできた。 「…ありがとう三角さん」 疑いが確信に変わってしまい、立希脳内の祥子カウンターはついに煙を上げて壊れた。 「では閑話休題です。立希さん、衣装を見せてください。」 「閑話扱いされた…」 初華がひとり嘆く。立希は、海鈴に急かされて用意した服を用意した。「海鈴…む、むこう向いてて」初華はもう向こうを向いていた。念のため海鈴の視線を遠ざけて、衣装に着替える。海鈴の背中から存在しない視線を感じる中、立希は着替え終わり、ふたりに「いいよ」と声をかけた。 「おおおっ」振り返って立希の衣装を見た海鈴が嬉しそうな声をあげた。立希の衣装は、何の変哲もない、純白のワンピースだった。まさに夏という感じだ。それは立希が前の夏に買うも、コスプレ感が強いと感じ、箪笥の肥やしになった服だった。気に入らないわけでもないので、これを機にもう一度役立ってもらおうと考えたのだ。 「可愛いよ立希ちゃん!すっごく可愛い!」初華が女子高生のように跳ねている。「感涙しました。最高です。ありがとうございます。」海鈴は評論家のようにむせび泣いている。いざそう言われると、立希はかなり恥ずかしく、赤面した。 「なんか、コスプレじゃないけど」 「いえ構いません。それでいいです。それがいいです」海鈴がケショケショとスマホで立希を撮り始めた。 「おい、撮るな」 「良いじゃないですか。減るものではありません」 「うんうん、思い出を残すのは大事だよ」そう言う初華は微動だにしていない。彼女の方は別に今を写真に残す必要性は感じていないのだろう。冷徹な取捨選択だ。 海鈴は「私のカメラロールはもう思い出でいっぱいですよ」と、何故かスマホを見せつけてきた。確かに画面にはびっしりと立希が並んでいる。「おお〜すごいね。びっくり箱だね」初華はまた適当なことを言っていた。よく見ると立希の知らない写真まである。 「お前…盗撮したな?」 「思い出残しです」 「海鈴ちゃん、私でももう盗撮はしないよ…」 (もう…?) 「立希さんも私の写真をいつ撮ってくれても構いませんよ」 「撮らない」何故海鈴と相互盗撮をする必要があるのか。「とにかく、ストーカー紛いのことはするなよ。信用に関わるから」 ここの殺し文句のところで、立希は初華が縮む気配を感じた。見ればやはりサイズがセントバーナードくらいになっている。彼女の地雷を踏むのも慣れたものだ。今回は「いや…まぁ思い出は大事だけれども」とフォローした。 「立希ちゃん海鈴ちゃん!」突然初華が声を張り上げた。「思い出よりこれからが大事だから、ね!」 「おおおっ」と海鈴がまた感嘆の声を漏らした。「聞きましたか立希さん」チラチラと立希の方を見てくる。立希も、初華の言葉に深みと迫真性を感じたが、特殊プレイのことを言っている可能性もあったので、それ以上の言及はしなかった。海鈴はうんうん頷きながら、立希のワンピースの裾をくいくいと引いてくる。 「立希さん聞きましたか」 「聞いてたよ」 「────私たちもこれからですね」 「お前は下手にカッコいいこと言おうとするなって。ガラじゃないんだから」 「早速私とツーショトを撮りませんか?」 「お前本当に三角さんの話聞いてたの?」 初華は初華で「もちろん、思い出も大事だけどね…」と言いながら、自分のスマホをうっとりと眺めている。やはり特殊プレイのことだったのかも知れない。しかし祥子カウンターはもう壊れている。それに今が幸せなら、全ての時間が輝いて見えるものだ。立希は声をかけないでおくことにした。 「立希さんのカメラロールも見せてくださいよ」調子に乗った海鈴が立希に絡んできた。「嫌だ」立希はスマホを隠す。当たり前だ。見せたくない写真と、見せてはいけない写真しかない。 「もしかして高松さんの写真ですか?」 「何で言わなきゃいけないの」図星を突かれて苦しむ。1番多いのは確かに燈だ。 「それともカワイイものの写真を見られたくないとか」 「だから言わないって」それは2番目だ。今日に限って、海鈴のなんたる勘の良さか。当然見られたくない。 「大丈夫ですよ。多少は目をつむります」 「じゃあずっとつむってて」実際そうしてもらわないと、立希の終わりのカメラロールは隠しきれない。何より、最も秘匿性が高く保たれなければならないのは、3番目に多い海鈴の写真だった。 立希が海鈴に困らされている間にも、初華はふたりに目もくれず、この世の春はここにありと言った顔でスマホを見ていた。思い出の世界に入ってしまったらしい。冷徹な取捨選択だ。 頑なな立希に不満気な海鈴は、矛先を初華に変えた。「じゃあ三角さんのはどうですか?」海鈴はそう言いながら、初華のスマホをつつこうとした。 それは海鈴の手がスマホに触れるか触れないかの瞬間であった。 「触らないでッ!」 と、聞こえた。初華の声だった。初華がスマホをかき抱いて、叫んでいた。 その瞬間、海鈴が立希の視界から消えた。立希は驚き、唖然とした。どうやら彼女には地雷だけでなく爆弾もあるらしい。そのひとつを、海鈴が引っかけたようだった。 「スイマセン」消えたと思われた海鈴は、よく見ると足元でバラバラのぷち海鈴になっていた。「ミスミサン.マイドゴメイワクヲ」ぷち海鈴たちがぷるぷると震えている。 「あぅ、こっちこそ、ごめんね、いきなり、おっきなこえ…」一方で初華の方も、すぐさまヨークシャーテリアくらいの大きさになって、海鈴同様にぷるぷる震えていた。 小さき者たちが対峙している。立希は横で何も言わずに見ていた。このふれあいコーナーから立希が学ぶことは特に無かったが、初華のスマホがパンドラの箱であるということは覚えておこうと思った。 ⑦ 【前回のあらすじ】 文化祭でのコスプレ喫茶接客回避のために3Pバンドを結成した1Bバンド三羽烏。立希の夏白ワンピをもって衣装が決定し、いよいよ練習が始まる。 (注:本怪文では作者の判断で時系列をブシドー的にデコンストラクトし花女にもう一度文化祭をもたらした) 「それでは練習を始めていきましょうか」 ややハイテンションの海鈴が宣言する。立希は少し緊張しながらドラムの準備をした。 その後、である。端的に言って演奏には何の問題もなかった。あまりにもつつがなく進んだので、言及することが何もない。 「できましたね」 「できたね〜」 「うん、良かった」 初回通しはこれで終わった。立希も睡眠時間を削った甲斐があった。いちど演奏を始めればこんなにも上手くいくのであったら、これまでのゴタゴタしたゴタゴタは一体何だったのかと思った。この演奏者たちが衣装決めに難航していたのがバカバカしくなってくる。楽器に関しては全く間違いのない女、八幡海鈴。そして三角初華。祥子が少し羨ましくもなった。(こういうところで交わるものか)と、立希は独りごつ。 一方、素晴らしい演奏を響かせたその教室に迫る、ひとつの人影あり。 その人影は、練習教室の前で止まると、こっそりと中を覗いた。「ムムム…」中には演奏を終えて、楽譜の確認をする3人の人影。それを認めると、人影は勢いよく扉を開けて中に入ってきた。 「ヤヤヤ!妖怪変化!」 大胆に見栄を切る人影と、3人の目が合う。短い沈黙があった。 「…あ、こんにちは。お久しぶりです」 「…お、お久しぶり、です…」 「…どうも」 人影は、文化祭実行委員だった。彼女は3人の顔を確認すると、ペカっと笑った。「皆さんでしたか!スミマセン!外から見たら、中にヴァンパイアとライカンとゴーストがいたものですから!」 「ヴァンパイア…」ギターボーカル、初華だ。 「ライカン…」ベース、海鈴。 「…え?ゴーストって私?」残るは立希しかいない。 (もしかしてこのモンスターズの横だとこの白いワンピが幽霊コスに見えるってこと?)立希は自分だけはまともな服を着ていると思っていたので、軽くショックを受けた。「あの、これ、ゴーストじゃないです…」 委員はニコニコしている。人を焼くことに特化した、アイドルの笑顔だった。立希は同じ笑顔をつい最近見たことがあった。しかし立希はもう靡かない。理想はあくまで硬派。そう心に刻み込み、心の中で『That Is How I Roll!』をかき鳴らした。 「皆さんは、文化祭のための練習ですか?」 「そうなんです。私たち、3Pバンド組むことになって」初華はsumimiモードになって答えている。 「スゴいメンバーで新しいバンドが出ると校内でも話題です。さっきもミッシェルの妹が宣伝していましたね!」 「ミッシェルの妹…?」聞き慣れぬ単語に立希は思わず聞き返す。 「パンダ柄のミッシェルですよね?」委員は、部屋の隅に転がされていた偽ミッシェルを指差して言った。「色が違うためにミッシェルランドを追放されて、今はRingのマスコットをやっている、スモウとウクレレの達人だとか!」 彼女は、立希たちの全く知らない情報を教えてくれた。どうやら海鈴の奇行によって生み出された偽ミッシェルが、風に乗って独り歩きし、よくわからない設定が勝手に盛られているらしかった。当の海鈴は「そうなんですね」などと言っている。もし彼女がハロハピから訴えられても、立希がしてやれることは無いだろう。 「その噂のバンドが、モンスターのチームで、その正体が皆さんとは、びっくりですっ。まさに"幽霊の正体見たり枯れ尾花"ですね!」委員は嬉しそうに言った。 「あの、これは、幽霊じゃないです…」立希は力無く呟いた。 「さっきの演奏も少し聞こえていました。すごくよかったですっ!とにかく、頑張ってくださいね。応援しています!」 「ありがとうございます。」初華がアイドルスマイルで答えて、去っていく委員を見送った。慣れた仕草で、流石はsumimiの初華であったが、普段の様子からすると不気味なくらいの変わりようでもあった。 委員が去った後、初華は偽ミッシェルの抜け殻に近づいて、その頭に手を当てて何かを語りかけていた。 「君も…姉妹と上手くいってないんだね…」 初華はさわさわと偽ミッシェルの頭を撫でる。彼女は存在しないキャラクターの存在しない設定に同情しているようだった。しかも、そのサイズはアフガンハウンドくらいに縮んでいる。あまりにも得体の知れない行動だったので、立希は見なかったことにした。 「ところで」海鈴が喋り始める。「先ほどの方は文化祭実行委員の方ですよね?おふたりはお知り合いなんですか?」 「まぁ…一時期バイトしてたとこの先輩、になるのかな…」と立希。 「私は、アイドルの先輩って言うか、お仕事で何回か一緒になったんだけど」初華もこう説明した。 「そうなんですね…」海鈴は少し寂しそうだった。自分だけが彼女と知り合っていないのが悲しいのだろうか。一匹狼を気取っているくせに、すぐこれだ。立希は一応「まぁ知り合いなんて偶然できるもんだから」と慰めておいた。 それを聞いていた初華は少し首を傾げていた。そして「でも海鈴ちゃん」と海鈴に声をかけた。 「Ave Mujicaでも一回だけパスパレさんと一緒になったことなかったっけ」 「…え」 「海鈴?」 「あ、なんだか思い出してきた。あの時は一応ご挨拶に、ってなってたけど海鈴ちゃんと睦ちゃんは来なかったんだよ。だから私たち3人で挨拶に行ったんだ」 「…そうでしたかね?」海鈴は目を逸らす。「海鈴お前…」立希はこの件の真相を見抜いた。 「海鈴の交友関係が浅いの、自業自得じゃん」 海鈴がギクッとして「立希さん。待ってください。結論を急ぐには早いです。落ち着いて」と弁明を始める。 立希はわざとらしくニヤリと笑った。「あーあ、やっぱりかぁ。なんというかなぁそんなだからなぁ」 「あ、やめてください、立希さん」海鈴が慌てて止めようとする。だが遅い。 「お前はしんよーーーーーーー」 「ああああ、やめて、やめてください立希さん、それはよくないです、止めて」 「ーーーーーーーーーー」 「違うんですよ。その頃は何と言うか、まさかこんなことになるとは、思ってなかったと言うか」 「ーーーう無いんだよなぁ」 「グェッ」海鈴がノックダウンした。「酷いです立希さん。裏切りです」 「私には裏も表もない」 初華は「あはは…」と曖昧に笑いながらふたりのやり取りを見ていた。フォローのしようが無かったからか、もう面倒になったからか、あるいはついに腹に据えかねたからか、海鈴を助ける素振りは微塵も見せなかった。 へにょへにょになった海鈴は、スマホで彼女のことを調べ始めた。「若宮イヴさんですね…」 「北欧系の人だった気がするよ」 少し調べていた海鈴は「少しお話を聞いただけですが」と、また難しい顔をして唸る。「また気になることがありますね」 「どした」 「若宮さんと私は、キャラ被りをしているのではないか、と」 「お前丁寧語使ってる人が全部自分に見えてるの?」 「流石にだいぶ違うよ。海鈴ちゃんしっかりして」 「いえそう言うわけではなくてですね」と、スマホに表示された一文を見せてくる。「この彼女が武士道を重んじるという点です」確かに若宮イヴの紹介として、捕捉的にそう書かれている。 「海鈴、お前は武士じゃない」 「目を覚まして海鈴ちゃん」 「お聞きください」海鈴は掌を前に出してふたりを制止する。「武士道というのは、仁、義、礼、智、信…つまり」海鈴は指を立てる。「信用です」海鈴は自信たっぷりに言い切った。 そこまで聞いて立希はどデカいため息をついた。 「お前は頭の中で信用パズルでもやってるの?」 「信用パズルとはなんですか?」 「…信用パズルってのは…いや信用パズルって何」 「よくわからないものを出さないでください」 海鈴がやれやれといった調子で言った。確かに何も考えずに発言したのは立希だが、なぜ立希が悪いみたいになっているのだろうか。初華は「武士…忠…さきちゃん…?」と、ひとりでルール不明の連想ゲームをやっていた。 「何にせよ、Ave Mujicaがメジャーでやって行くならば、いずれ彼女と相対する日が来るかもしれません」 「あ、もう海鈴がムジカの信用キャラで行くことは確定してるんだ」 「おや、不満ですか」 「不満というか、驚いてる。その自信に」 「海鈴ちゃん次は挨拶できるといいね!」初華の悪意なき言葉のナイフが突然飛んでくる。 「三角さんそれやめてください」海鈴はちょっと泣きそうだった。 「というかベースがキーボードに対抗するのよくわかんないでしょ」 「では、えーと…」海鈴がまたスマホを触る。「白鷺千聖さんですか」 「いやパスパレの同じ楽器に対抗を続けろって言ってるんじゃないけど」 海鈴は画像をフリックしながら「見た感じ白鷺さんも裏表が無くて信用できそうですね」と言った。写真から何がわかるものか。 「お前には信用スカウターでもついてるの?」 「信用スカウターとはなんですか?」 「それは信用の…いやなんなんだよ信用スカウター」 「だからわからないものを出してこないでください」 海鈴が憤慨している。立希は、海鈴相手にそんなに考えて発言しているわけがないのだから、いちいち引っかからないで欲しいと思った。「キーボード…アイドル…さきちゃん…?」初華の連想ゲームは先ほどより明瞭だったが、なおルールが不明だった。立希は、初華がイマジナリ祥子を頼ってふたりを適当に無視するのに慣れてきているのに気がついた。あまりに危険な兆候だった。 「ともかくですね!今や私たちが目指すのはパスパレ超えです!」海鈴が大きな声で宣言する。あまりに急な話で何が「今や」なのかもわからなかった。初華も狼狽える。 「ええ!?そんな話だったっけ?いつのまに!立希ちゃん今一体何が」 「いや知らない…」立希は手綱を投げ捨てた。 「今日もあと何回か通して本番に備えましょう!」 なんらかのスイッチが入って、やけにハイテンションな海鈴に叩かれ、その日は何度か曲を通すことになった。 しかし、である。やはり演奏はほとんど完成されていた。海鈴の話を真に受けるわけではないが、立希は、このふたりがいれば失礼ながら並のアイドルバンドごときに遅れをとることはないと思った。演奏が始まれば、このバンドには無駄なものがない。立希の理想はあくまで硬派、硬派なのだ。我ら1B三羽烏、見た目は色物でも、文字通りのモンスターバンドとなるべし。 かくしてバンド名は「M∞n3tar」に決まった。実行委員の勘違いと、初華の最初のアイデアが盛り込まれた。あとは本番を待つばかりであった。 ⑧ 【前回のあらすじ】 文化祭でのコスプレ喫茶接客回避のために3Pバンドを結成した1Bバンド三羽烏。3人のバンドは名前も決まり、ついに文化祭の日を迎える。 (注:本怪文では作者の判断で時系列をブシドー的にデコンストラクトし花女にもう一度文化祭をもたらした) つい先程の話だったが、立希が海鈴を揶揄った。「海鈴、今日お母さん来るんでしょ?私、挨拶に行こうか?」 海鈴は唸って悩んでいた。立希を親に紹介するというイベントへの憧れと、親と合わせる気恥ずかしさを、天秤にかけているようだった。最終的に海鈴は「い、今はまだ早いです」と言った。気恥ずかしさが勝ったらしい。そして「私はチラシを配ってきます」と言って、そそくさと消えて行った。 そんなわけで今、立希はひとり、ステージ裏のテントから、集まった観客を垣間見ていた。彼女はドロリスとティモリスと組んでしまったのだ。どんな人がどれだけ来るのかが気になった。 実際、観客の数は大層なものだった。その多くがAve Mujicaのファン、次いでsumimiのファンだ。うちわやペンライトを持っている者すらいる。若干気圧されながら、観客席を睥睨していると、立希が見つけたくないものも見つかっていく。 例えばあの真ん中くらいの左寄りにいる人影。あのアホ面を見まごうことはない。(やっぱり来た…愛音…)そしてその隣にいる不機嫌なんだか楽しいんだかよくわからない顔の女。(…そよ…)あまり来て欲しくない部類の人間ではあった。しかしあのふたりがなぜ?立希は頭の中で想像を展開する。 「ね〜そより〜ん。りっきーの文化祭行こうよ〜」愛音がそよに絡む。 「別に立希ちゃんに来て欲しいとも言われてないし、行く必要ある?」そよは断ろうとする。いい調子だ。頑張れイマジナリそよ。 「えーだってりっきーがsumimiの初華とやるんだよ?見たすぎでしょ!」愛音が食い下がる。 「じゃあ、ひとりで行けばいいんじゃない?」そよはこんなことを言った。ああダメそうだ。こんなのはもうもっと誘って欲しいと言っているようなものだ。 「バンドの仲間なんだから皆で行こうよ〜!」愛音のさらなる追撃。 「ハァ…しょうがないなあ愛音ちゃんは」そよはついに敗北した。しょうがないのはお前の方だ。 以上、脳内劇場終了。答え合わせの必要はない。どうせ7割型これで合っているはずだからだ。きっと今も似たような会話をしているに違いない。 改めて現実をよく見ると、愛音は立希の名前が書かれたうちわを持っていた。これにはそよもさぞ面白がったことだろう。タレントの名前の中では明らかに浮いており、現在進行形で恥をばら撒いていた。立希は静かにふたりへの復讐を誓う。 (待って!ふたりがいるってことは燈は!?) 立希は大事なことにも気がついた。愛音が燈を誘っているはずだ。全員いないならまだしも、そよがいて燈だけがいないのは悲しすぎる。いくら興味がないものに冷淡だからと言って、そちらの箱に自分が入れられたら立ち直れない。「ぁ…立希ちゃん…どうでもよくて…」 「あぁぁぁあ!燈はそんなこと言わない!」妄想燈を黙らせて、立希は目を皿にして観客席を探る。(燈いて燈いて燈いて燈いて)右から左まで行ったところで、端っこの木の下にしゃがみ込んでいる人影を見つけた。「燈いた!」いつもの燈。流石にあの格好で高校で石を拾う人間がふたり以上いるとは思えない。確かに燈だ。立希は安堵のため息をついた。いつも通りの燈を見られたことと、燈が自分のライブは見に来てくれたことに、安心した。愛音には僅かばかりの感謝を送る。これで迷子が全員集合だ。 「りっきー」 「うわっ!お、お前野良猫!」全員集合ではなかった。妄想ではない、現実の存在が後ろから声をかけてきた。出席率が低すぎてすっかりいない前提だった、迷子の5人目、楽奈だ。 「なんでここに?」 「この学校なんだけど」 「…あ、そうか。じゃなくて、ここ入ってきたらダメだって」 「そうなの?」 「はぁ…なんで入ってきたの」 「これ、ねこがくれた」と言って、ビラを差し出す。海鈴が配りに行った、ステージのチラシだ。 「猫がくれた?どういうこと?」 「黒と白のねこ。おおくまねこ。りっきーの彼女」 「あぁ…アレが彼女なわけじゃないから…」おそらく偽ミッシェルのことだ。海鈴がまたアレを着て宣伝活動をしているのだろう。何をそんなに気に入っていると言うのか。「というか、お前、あれも猫判定になったのか…」 とりあえず楽奈を愛音の元まで追放しようと首根っこを掴む。「向こう行っとけ」「えー」 そのタイミングで、テントにまたひとり入ってきた。 「あ、三角さん」入ってきたのは初華だった。「あれ?マイゴの…」初華は楽奈を見てオロオロしている。 「ごめん、今追い出すから」 「大丈夫だよ、ゆっくりしてて」 意外な邂逅だ。何かの野生動物に恐る恐る触れるような雰囲気の初華に対して、楽奈は初華の顔を見てふらふらと揺れていた。捉えどころのない楽奈に、人当たりの良い初華は明らかに戸惑っている。まるで初めて出会った犬と猫だ。立希は多少面白がりながら、それを横で見ていた。 「らーなちゃん、だよね?よろしくね?」 楽奈は「うん」と頷き、じっと初華を見ていた。 「三角さん、こいつこんなので、ごめん」 「あはは…全然大丈夫だよ」 「ねこ?」楽奈が口を開いた。 「何言ってるんだよお前」 「え!?さ、最近はちがうよ!」 「三角さん?」 「い、いや、じゃなくて!私は猫じゃないよ!?」 「ふーん。ギターやるの?」 「うん、ギターはやるよ。楽奈ちゃんも… ……ふたりの何気ない会話を聞いていたら、突然立希の背筋がぞわぞわと逆立った。このふたりが原因ではない。何かはわからないが、妖気のようなものが立希の体にまとわりつくのを感じたのだ。 立希は慌てて振り向いた。何者かが外から立希を狙っているのか。テントの隙間から観客席の方を見回していると、妖気の出どころは容易に発見できた。 列のいちばん後方の方。鍔広の帽子にサングラスとマスクをかけた怪しい人影が立っている。元凶は彼女だ。妖気のせいで彼女の周りの空気だけが歪んでいるのがわかった。 (おいあいつ…)見えていないはずのこちらに向かって、妖気を飛ばすその女に、立希は心当たりがあった。本人は隠しているつもりかもしれないが、全く隠しきれていない。 (祥子だ……) 祥子らしき人は人物は腕を組んで仁王立ちし、妖気を放ち続けている。なぜ今、祥子に立希が呪われなければならないのか。心当たりはひとつしか考えられない。立希は、横でワタワタと楽奈とお話を続けていた初華に話しかけた。 「ねぇ三角さん」 「ひゃい!何かな?」 「ここくる前どこにいた?」 「え、えーと言っていいのかな。あの、MCの指導を受けてて…」 「MCの指導…?」立希が目を細めて初華を凝視すると、初華は冷や汗をダラダラと流しながら目を逸らした。極めて怪しかった。「誰に…?」 「そ、それはね、えーと……」初華はなんとか逃れようとしていたようだった。するとわかっているのかどうか、楽奈も猫の目で「むふー」と初華を凝視し始める。ふたりに見られて初華はついに堪忍したように口を開いた。「さきちゃん…」 「…」立希は絶句した。まだ全体像は見えてこないが、おそらく祥子に妖気を飛ばされている理由はこのあたりにある。しかしこれ以上話を聞きたくない気配も感じたので、「祥子、来てたんだね」と当たり障りの無いことを言って会話を終えた。 「じゃ、野良猫、とっとと出るよ…」立希は野良猫の体を回れ右させて、両肩を後ろから掴む。 「ライブ、やっちゃダメ?」 「ダメ」多分技術的にダメな人間はいないのだろうが、立希は勘弁だった。そのまま押し出してテントの外に放り出そうとする。 しかし、放り出す瞬間に、巨大な影がテントに入ってきた。またなんという悪いタイミングだ。これは偽ミッシェルだ。 偽ミッシェルはテントに入るや否や、立希と楽奈を見てフリーズした。「お、おおくまねこ」と楽奈が言った。偽ミッシェルの中から海鈴の「立希さん…」という低い声が響く。 「ライブ前の高揚感に任せて、浮気ですね…?」 「違う」 「こんなところに中学生を連れ込んで、淫行なんですね…?」 「違う」 「いんこう?」楽奈が首を傾げた。洒落にならない犯罪臭が漂ってくる。 「海鈴、今はマジでヤバい!」 「ヤバいのは未成年に手を出す立希さんです」 「私たちも!未成年!」 「三角さん、通報してください。花女では学内淫行は風紀紊乱罪です」偽ミッシェルから胡乱な指示が飛ぶ。 しかし初華から返事はなかった。 「三角さん?」3人が目をやると、初華は先ほどよりも激しくダラダラと汗を流していた。「三角さん??」 「ぁえっ?や、海鈴ちゃん、立希ちゃんは変なことしてないよ。大丈夫だよ」 「本当ですか?」どう見ても、この場の誰よりも初華が1番うろたえていた。 「…もしかして三角さん」立希の口から、舌の際で留まっていた疑問がこぼれ出てしまう。彼方から届く妖気は、未だに立希を取り巻いているのだ。「三角さんは変なことをしていた、と…?」 「はぇっ!?違うよ!してないよ!未遂だよ!」 「みすい?」楽奈が再度首を傾げた。初華が自分の失言にハッとした。もっと早くハッとして欲しかったが。 「あー…」立希は得心が行ってしまった。あの妖気は、極めて利己的で理不尽な理由で発されているのだ。(自分から呼びだしておあずけ食らって逆ギレってこと…?) 偽ミッシェルは腕をぶんぶんと上下しながら「なんですか?どういうことですか?」とわめいた。「というかなんか空気悪くないですか?」しかもどうやら妖気が偽ミッシェルを貫通して中の海鈴にも届き始めている。恐るべき妖力だ。 楽奈が初華に向かって「やっぱりねこ」と言った。初華は真っ赤になって俯いてしまった。ネコはネコかもしれないが、その様子は悪戯が見つかった子犬のようだ。「おもしれーねこの子」楽奈の初めて聞く評価だった。一体判定基準は何なのか。子犬はくぅんくぅんと鳴いていた。 バカのパンダ、犬、猫。八芒星だ。テントの天井が、左回りに回り出す。立希はテントから外を逆さまに覗いた。相変わらず燈は石を拾っていたし、祥子は妖気を放っていた。これが、音楽の寵児の姿なのだろうか。ライブ直前になって、立希は少しばかり自信を失ってきた。 ⑨ 【前回のあらすじ】 文化祭でのコスプレ喫茶接客回避のために3Pバンドを結成した1Bバンド三羽烏。3人のバンドはついに本番の舞台に登る。 (注:本怪文では作者の判断で時系列をブシドー的にデコンストラクトし花女にもう一度文化祭をもたらした) 「続いては「M∞n3tar」です!」 立希はステージに立っていた。観客の目線と歓声。そして、この席の特権である、他のメンバーの姿。ここからの景色は好きだった。しかし今日は、いつもとは色々なことが違った。一生を共に歩くと違った仲間ではない。その道の中で、あるいは外で、道を交えて手を繋いできた、別の輩。 八幡海鈴は野生味溢れる衣装に包んでいる。Ave Mujicaのステージにいるときよりも、彼女からは生きている感じを得た。その隣に、立希がいるからだろうか。中央に立つは三角初華。その妖しくも艶やかな姿に、みなが惹きつけられている。立希は、彼女たちと今ここにあることが誇らしかった。 三角初華の吐息が、マイクを通して聞こえてくる。いよいよ始まるのだ。 「夜だけが…」初華が口を開くと、場が静まり返った。「怪物の時間ではない。この白昼にも、僕らは血に飢え、地に蠢く…」 …これが初華のMC… 「見えない星を数え、見えない月に吠える、怪物。本日の見せ物をご紹介…」 …これはちょっと… 「今から少しばかりの間、甘い悪夢と、心地よい暗闇を…」 …いやかなり… 「僕らの歌が、夜の始まりと知るといい…」 …祥子に調教されているような… 「ガオ」初華がポーズをとると、観客席が黄色い歓声に包まれた。間近で見る、燈とはまるで違う洗練されたパフォーマンス。これがマルチエンタテイナーか。しかし驚いている暇はない。 「ヴァンパイア!」自己紹介が始まった。海鈴のベースがリズムを刻み始める。この流れは聞いていない。しかもこの名前。立希は空気を読んでドラムを叩く。 「ライカン!」海鈴の紹介は初華の口から行われた。自己紹介ではないらしい。嫌な予感がしてきた。一応軽快にドラムを叩く。観客たちがアガっていく。 「ゴースト!」予感は的中し、立希はついに公式にゴーストにされてしまった。どうしようもないのでドラムを叩いた。客席のボルテージがさらに上がる。 「ファントムキャット!」 「は?」ステージをよく見ると、端っこからギターを持った、猫耳と2本の尻尾の女が楽しそうに駆けてくる。あれはどう見ても楽奈だ。いつの間に?さっき目を離した隙に、初華と何の取引が?これではもはや3Pバンドではないではないか。それでも一応ドラムは叩いた。盛り上がりは最高潮だ。 「『MEMORIES 4OR FUTURE』」 初華の口から曲名が明かされた刹那、海鈴のベースに合わせて、楽奈がつい先ほどまで存在しなかったセカンドギターパートをスタートさせた。ああ、こうなりたくなかったから練習をしたのに。土壇場で全てが無茶苦茶だ。立希はもう遮二無二やるしかなかった。 ──── ライブの喧騒は、静寂な喧騒。燈の歌は魂に響く。だがここの音は体に響いた。立希はいま、三角初華と、八幡海鈴のステージにいる。 「迷っているから 一歩踏み出せるよ 声が背中押すよ」 声、声は音、音、音に呑まれていく。身体が、めくるめく、音の中に。 「だから行こう 夜の向こう 新しい世界へ 」 ──── 演奏が終わったとき、立希は肩で息をしていた。いつもより疲弊している気もした。観客席は大いに沸いている。隣を見れば、海鈴はいつも通りの澄まし顔。前の楽奈は、満足そうに胸を張っていた。初華の顔は見えなかったが、多分祥子の方を見ているのだろう。彼女がゆっくりと礼をして、立希たちの出番は終わった。 はけながらぼんやりと思う。海鈴は淡々と演奏をこなしたし、楽奈は意外にもセカンドギターの道を外れなかったし、初華は所々で自由な楽奈をきちんと御していた。ということは、ドキドキしていたのは立希だけなのだろうか。 入れ違いに次のバンドが出ていき、ステージ裏に4人だけが残された。海鈴は「立希さん、良かったですね」と、なんでもなかったのように声をかけてきた。 「あぁ、うん。ちょっと、驚いたけど」立希は息を整える。「海鈴も、三角さんも」 「立希さん?」 「私はああはできないからさ」言ってから、立希は自分が思いのほか卑屈になっていて、この熱の中に相応しくない発言をしたことに気がついた。「なんでもない。忘れて」 「…」海鈴が訝しげに立希を見ていた。立希がその視線に居た堪れなくなって離れようとすると、海鈴はそれより早く、背に腕を回して抱きついてきた。「立希さん!」初華が口をおさえて「あらら」と言った。 「わっ、なんだよいきなり」 「立希さんは」抱きつく腕が少し強くなる。「私たちとのセッションは、楽しかったですか?」 「え…」 「私は楽しかったです。三角さんや要さんは?」 「うん、楽しかったよ!」 「わるくない」 「はい。では立希さんは?」 「あ…」 海鈴にこう言われて、立希はやっと大事なことを思い出した。「楽しかった…かも」 「じゃあ大成功ですね」立希の頬が緩むのを見て、海鈴は笑った。 「…うん、大成功だ」立希も答えた。 いつもとメンバーが違うだけで、立希は余計なことを考えそうになっていた。だが、今日は祭りの日で、3人は友達で。つまりは全く、これでよいのだ。海鈴がこんな気の回し方ができるとは。いや、実は高揚のうちに湧いて出た言葉で、彼女自身は何も考えてはいないのかも。立希はどちらでも構わなかった。 ふたりが冷めぬ熱を分かち合っていると、背中にドンとぶつかる感触があった。背中の方も、じんわりと暖かくなる。後ろを見ると、楽奈も後ろから立希に抱きついてきていた。 「りっきー、ないす。やる女」 「お前、少しは勝手に入ってきたことをだな…」 「けいやく」楽奈はにっと笑う。 「要さん、立希さんは私のですよ」海鈴が楽奈を威嚇した。 「誰のでもないから」 ふたりに挟まれるような変な姿勢だったが、立希は黙って受け入れた。身動きも取れなかったが、今は許容することにした。初華は少し離れたところで、優しい微笑みを浮かべてその光景を見ていた。 立希は冗談めかして「三角さんも混ざる?」と声をかけてみた。初華はすぐさま「ううん、いいよ」と断った。(あ、断るんだ…)この空気、混ざる感じじゃなかった?初華の、どんなときでも冷徹な、取捨選択であった。 「じゃあ帰る」楽奈は早くもケースを抱えていた。「ういか、またね」 「うん、またね」ふたりが視線を交わしている。楽奈にとって、初華が"おもしれー女"だったのかはわからなかったが、楽奈はそれなりに満足げにみえた。 「りっきーも早く帰ってきて」 「わかってるから」楽奈は立希の帰る場所をこれっぽちも疑ってはいないようだった。 珍しくも挨拶をした野良猫は、追い出そうとしたときとは反対に、ピューッとテントから消えていった。立希は、楽奈が出ていってから彼女のコスチュームが化け猫のままなことに気がついたが、別に気にすることでもなかった。野良猫も化け猫も似たようなものだ。 「…私へは何もありませんでしたね」楽奈が消えた方向を見ながら、海鈴が寂しそうに呟いた。「お前通報しようとしただけじゃん…」 テント内が少し落ちつくと、「じゃあごめん私も」と、初華が切り出した。「ちょっと挨拶してくるね」 (祥子か…) 「豊川さんですね」 「海鈴、そういうのは黙ってるもんだ」 「うぅごめんねぇ」初華は恥ずかしそうに、逃げるように出口に駆けて行った。しかし、出る直前で止まった。そして振り返ると、ふたりに笑いかける。「ライブ、すごくよかったから!それじゃ、またあとでね」そう言い残して、外へと消えていった。 「またあとでね、か」思えばこの3人に、別れの寂しさはなかった。またあとでも、明日でも、その先でも一緒に会うだろうし、もしかしたらまたライブをやることすらあるかも知れない。今日は、なんでもないバンドが、文化祭のステージに登った、ただそれだけの日なのだ。今の立希は穏やかにそれを受け入れていた。(でも次があったら絶対名前と衣装は変える) 「立希さん」初華が消えたテントで海鈴が呟く。「ふたりきりですね」外の、ステージの喧騒が、一段階上がった。サビだろうか。 「海鈴、さっきから随分積極的じゃん」 「ライブの後ですよ。それに、今日は少し特別な日になりましたから」 「なにそれ」 「私の演奏は信用できましたか?」 「それは聞く必要ないでしょ」 「ありがたい言葉です」 「これくらいだったら、また言ってやってもいい」 「じゃあまた3人でやれると良いですね」 「うん、たまにはね。3人じゃなかったけど」 少しの沈黙。海鈴がじわりと、距離を詰めてくる。立希はその様子をからかった。「なんだよ。今日の海鈴は、身も心も狼か?」 「立希さんが望むなら、狼にでもなりましょう」海鈴もからかい返した。ステージの方からまた黄色い歓声が聞こえてくる。でもテントにはふたりきりだ。確かに今日は、なんでもない日々の中でも、少しだけ特別な日だった。 「今日くらいは狼と遊ぶのも悪くないかな」 「ええ、戯れなれば」 海鈴がまた少し寄ってきた。立希も拒まない。ふたりの間の距離が、無くなっていく… 「ただいま!……ア゛!!!!!」 「ミミミ、三角さん!」立希が飛び退いた。 「ア、ア!そうだよね、ライブのね、前後はね、盛り上がるもんね、うん!」 「ち、違うから、何にもしてないから!誤解だから!」 「立希ちゃんも女の子だもんねえ!ワハハ!」 「クッ…誰目線なんだ…」 最悪のタイミング。初華の帰還が立希の立場を危うくしていく。「三角さん。戻るのが随分早かったですね」海鈴は海鈴で露骨に不機嫌になっていた。 「だって挨拶だけだもーん。風紀乱したりしないんだもーん」初華は鼻高々で言った。別に誇るようなことではないのだが、ふたりにはいい意趣返しだ。「ふたりとは違うんだもーん」 「三角さんやってくれましたね」 「やぁも」 初華にジリジリと迫る海鈴を、初華が華麗にかわす。テント内がまた混沌とし始める。早く撤収しなくてはならないのに。立希はため息をついた。こうしてこの日はこの後も、このまま3人でワチャワチャとやる羽目になったのであった。