① 「珍しいね、三角さん」 立希がそう言うと、初華は照れくさそうに「そうかな?」と言った。事実、昼休みの教室で見られる光景としては、珍しいものだった。初華が昼ごはんに、お弁当を持ってくるというのは。 自分で作ってきたのだろうか、それとも誰かに作ってもらったのだろうか。豊かな彩りを持った、栄養バランスにも気をつかわれてそうなそのお弁当を、初華は食べずに愛おしそうに眺め回していた。 「美味しそうですね、三角さん」 いつの間にか背後に現れた、海鈴がそう言うと、初華は照れくさそうに「えへへ…」と言った。それだけで、そのお弁当が、何か特別なものであろうことが察せられた。正確に言えば、それなりにまともな人間には、それが察せられる状況であった。 「ひとついただきます」 海鈴が、その初華の手つかずのお弁当から、卵焼きをひとつ頂戴した。そしてそれはそのまま、口の中に放り込まれた。ああ、美しきかな友情、美しきかな信用。 〈三馬鹿、お弁当をつくる〉 「スミマセンデシタ」 中庭のベンチにわらわらと群れるぷち海鈴たち。その横で申し訳なさそうに座る初華に向かって、不揃いな動きで頭を縦に振っている。謝罪しているのだろうか。立希は立って、その様子を半目で目守っていた。 あのあと三羽烏は教室を離れた。当然だ。sumimiの初華があんな、地も震える怒号を発しては、仕方がない。教室中の視線を集めるし、海鈴は小さくバラバラになるし、立希はそれの当事者にされた。居た堪れなくなって、中庭に逃げてきた。 「私こそ、ごめんね」初華は十分に落ち着いていたが、卵焼きを取られたことを含め、忸怩たる想いがあるようだった。じっとりとぷみりを見つめている。 再度居た堪れなくなった立希は、初華に訊ねた。 「大切なものだったの?」 初華は絞り出すように答えた。「…うん。今日のお弁当、さきちゃんが作ってくれたんだ」 「祥子が…なんか…意外…?」そう言ったところで、彼女の才能や生い立ち、入れ込んだ相手に尽くす性を思い出す。「そうでもないか」 「これからは、作れるときは当番でお弁当作ろうってなったの」初華はここばかりは幸せで堪らないといった様子で言った。 「羨ましい限りです」海鈴はいつの間にか元に戻っていた。「料理で気持ちを伝え合う。良い関係です。ねえ立希さん」 海鈴の試すような目つき。「…何。いや、できれば何でもないといいんだけど」 「私たちもお弁当を作りませんか」 「やっぱりそうなるか…」立希はこれから起こる面倒ごとを察知し、肩を落とした。 「いいね、いいね」初華はウキウキしている。「3人で作ったお弁当見せ合ったりしたら、きっと楽しいよ!」 「三角さんも乗り気にならないでよ。私は料理とかあんまりだし」 「私は立希さんのならあんまりでも大丈夫ですよ」 「じゃあ肝心の海鈴は料理得意なわけ?」 「…」海鈴は黙り込んだ。この女は元より口下手だが、沈黙は雄弁だ。「…」 「だろうと思ったよ。はいこの話は終わり」 「ままま、待ってください。私できます。ベースも上手いので多分料理もいけます」 「お前のベースに対する信仰は何?」 「立希さんの為に強くなります、私」海鈴は誓いを捧げた。しかし誓いとはこう軽率に立てるものではない。やはり彼女のエンジンは回路を繋ぎ間違えている。 「相変わらずカッコいいね。海鈴ちゃん」 「三角さん、これはね」 「これってなんですかこれって」 一方の初華は、海鈴の提案を真面目に考えていた。控えめに立希を見上げて言う。 「私もね、料理はまだまだ全然初心者だから。さきゃんに美味しいって言ってもらえるように頑張りたいなぁ」 「おお三角さん、利害の一致ですね」 何が一致したのかはわからなかったが、とにかく2対1だった。しかし立希は、この3人でいることにある程度諦めがついてきていた。この2人と歩いたら、どうせ迷子になるのだ。目的地がわかっている方がまだマシだ。 謎の一致に気を良くした海鈴が、不意に「豊川さんは何が好きなんですか?」と初華に尋ねた。 「え…あの…」初華がみるみる萎んでいく。「…知らないかも…」海鈴が踏んだのは小型地雷だ。ダックスフンドがクゥクゥ鳴いている。「さきちゃんの…好きなもの…」 「あ、海鈴。泣かせた。女の子泣かすんだ」 「な、なんでですか!?」海鈴が慌てる。確かに今回は予想外だ。初華ならば祥子の好物くらいは把握していそうなものである。海鈴は不器用なりに取り繕おうと必死だ。不自然に全く違う話題を投げた。 「では三角さん。三角さんが食べたい豊川さんの料理なんですか」 「…卵焼き…」 「ソウデスカ. スミマセン」海鈴が勇んだふたりの会話は、それ以上続かなかった。 「立希さん」海鈴が立希に振った。「立希さんは、私の好物わかりますか?」 「急になんでそんな話?」 「私の好物を知れば、立希さんも料理へのモチベーションが出るかと思いまして」 「本音は?」 「立希さんにも私のお弁当を作って欲しい!」 「うるさ…」海鈴はなんとか立希を説得しようと試みているようだった。何かしら返事をしないと面倒だ。 「あ、カロリーバーでしょカロリーバー。毎日食べてるし」 「適当に答えないでください!好きで食べてると思ってるんですか…!?」海鈴か目をギラつかせて泣いた。「涙ぐましい努力なんですよ…!立希さんはちゃんと知っておいてください」 「立希ちゃんダメだよ。女の子を泣かせたら」 初華が立希の言葉を借りて嗜めた。口は災いの元だ。立希には知ったことではなかったし、(祥子にも言ってあげて欲しい)とも思ったが、口には出さなかった。…燈が泣いたら口に出すつもりだが。海鈴は立希の内心をつゆも知らず泣き続けている。 「だいいちカロリーバーは料理ではありません」 「立希ちゃん、誰かに作ってあげたい料理とか考えてみたら?」 海鈴が、初華に気を使われている。しかし初華の質問は興味深かった。立希は落ち着いて考える。海鈴はまぁ置いておくとして、だ。自分が料理を作ってあげたい相手がいるとすれば、誰よりもまずあの子だ。でも立希は彼女の好物を知らない。 「ん〜ん…?」気軽な質問に必要以上に思い悩む。 「え、えーと、その人がよく食べてるものとか、思い出してみるといいかも」 立希も、初華に気を使われた。海鈴が「ヒントは大衆食ですよ、大衆食」と言っていたが、立希は聞いていなかった。頭で別の人間のことを考えているからだ。立希の知っている、あの子がいつも食べているものと言えば。 「……水?」 「立希さんバカなんですか?」 「料理どころか食べ物かすら怪しいよ…」 ふたりに指摘されて我に返る。「いや、違う今のナシ!」燈は注文しないから記憶から水のシーンしか出てこない。立希は燈について考えるのを一旦保留にした。海鈴が「ヒントは麺類ですよ、麺類」と言っていたが、やはり立希の頭には海鈴とは無関係の人間が次の候補としてあがっていた。「りっきー。ごはん」幻聴が聞こえる。抹茶は料理ではない。とすれば。 「……おそば?」 もちろん立希が楽奈にこれ以上何かを作ってやる義理はなかった。これ以上食事の世話までしたら、それは野良猫ではなく、もはや飼い猫だ。 「惜しいですね立希さん。たいへん惜しいです」海鈴はちょっと嬉しそうだった。 「…ん?あ、何?」 「次のヒントは小麦です。小麦」 「え、何が?」立希が話を聞いていなかったせいで、微妙に会話が噛み合っていない。初華が精一杯、間を繋ごうとする。 「海鈴ちゃんはうどんが好きなんだよねっ!」 「違います。三角さん、少し黙っててください」 「うぇ?なんでぇ」 「海鈴はうどんが好きだったのか…」 「違いますって!ほら、三角さんのせいでおかしなことになったじゃないですか。クールな私のイメージ毀損です」 海鈴がわぁわぁと叫ぶのを聞いて、立希も話の流れを改めて把握する。 「ああそう言えば海鈴の好物の話してたね」 「えっ?私はずっとそのつもりだったんですけど」やはり話は噛み合っていなかったし、初華はまだ納得がいっていない様子だった。 「なら海鈴ちゃん何が好きなの?」 「焼きそばですよ、焼きそば!」 立希は少し考えた。「…いや、焼きそばもうどんも別にイメージ変わらないでしょ。少なくともどっちでもお前のパンクファッションは台無しだよ」 「…」海鈴も黙ると、顎に手を当てて首を捻った。そして何かに気がついた。「確かにその通りですよ!なんでバラさせるんですか!もっと秘密な感じにしたかったのに!」 「なんなんだ本当に…」 逆ギレした海鈴が顔を立希の目の前まで近づけてくる。「知ってしまったからには、お弁当作りに参加してもらいますよ」 「…はぁ、結局こうなるのか」 「これもいい経験になるよきっと!」初華が言った。底辺番組の企画でも同じことを言っているのだろう。アイドルはたくましい。 「立希さん。もし焼きそば弁当を作るなら、目玉焼きを乗せてくださいね」 「言いたい放題だなお前…」 「ふ〜ん海鈴ちゃん、卵料理も好きなんだ?」 「…何が言いたいんですか?」 「いや、だからさきちゃんの卵焼き取ったのかなーって」 目の座った初華の声は、微妙に乾いており、先ほどの事件を相当根に持っていることが察せられた。この辺りで昼休みが終わったので、立希は再度バラバラになったぷち海鈴を回収して、教室に戻った。 ② 【前回のあらすじ】 流れでお弁当を作ることになった花女1-B三羽烏。お弁当は互いに見せ合うことになる。めくるめく、プライドを賭けたお弁当作りへ… 〈立希編〉 「りっきーさぁ!絶対なんか言いたいことあるでしょ!?」Ringに愛音の声が響く。 「はぁ?別に」 大嘘であった。まず、立希はお弁当を作ることになった。しかし、端からひとりで、という訳にはいかないことはわかっている。誰か頼れる人を探さなくてはならない。家族は嫌だったので、それ以外だ。しかしそうなってくると、例によって絞られてくる。よって今、言いたいことは、あった。だがそれは愛音にではない。 「なんかソワソワしてるし。不自然すぎだよねーともりん」 「ぇ…えと、立希ちゃんは、いつも、しっかりしてる、と思う」 立希には、燈の評価を喜べばいいのか、違いを認識されていないことを嘆けばいいのか、微妙なところだった。しかしそれは些事だ。今は、一番の目的に辿り着くための障害を除去しなければならない。 「別に、燈ちゃんいるときの立希ちゃん、いつもあんな感じじゃない?」 「えーそよりん、りっきーに興味なさすぎ〜」 そよ。立希の答えは彼女しかなかった。恥を忍んでそよに頭を下げ、料理の教えを乞うのだ。だが、邪魔すぎる存在がここに。 「りっきー私でよかったら話聞こか?ん?」 悪夢だ。デカ口を開けて笑うこの女は、悪夢の主だ。海鈴に流されて手作り弁当なんて、知られたらろくでもないことになる。大体、愛音は料理などできるのだろうか。気になったが、それを聞くのすら恐ろしかった。 「わ、私も、立希ちゃんの、力になるから…!」 吉夢だ。高松燈は、吉夢の守り人だ。しかし燈にも知られたくはない。いや、知られてもいいが、そんなことで煩わせるわけにはいかない。少なくも立希が、料理を最低限をこなせるようになるまでは。…そして、できるなら燈に食べてもらいたい… 「本当に何でもないから。燈、ありがとう」 「りっきー私に感謝の言葉は〜?」 立希は、適当にその場を乗り切った。後で、そよとふたりになれる機会を作るしかない。(お願いそよ!少しだけ力を貸して!) 🚪 「ちょっとりっきー聞いたよ〜?」 畜生。してやられた。あの詐欺師め。だが確かにそよは「燈ちゃんには内緒にするね」としか言っていない。騙された立希が悪い。 「そよりん中で待ってるよ〜」 立希は諦めて悪夢に侵された長崎邸の中に入ってった。 〈海鈴編〉 「なるほど、ここは確かに良い場所ですね」 「そりゃ、まあね」 海鈴が辿り着いたのは、大きな台所。ここに辿り着くまでに経由したマスは1マス。祐天寺邸だけだった。 にゃむに頼った海鈴は…いや、海鈴に頼られたにゃむは、すぐさまその面倒ごとを分散した。海鈴から放たれた白羽の矢は、にゃむの愛憎の矢と同じ軌道を描き、ある人物の頭に深々と突き刺さった。 「この台所も、食材も、好きに使っていい」 実質的なここの主人たる睦は、特に嫌がる様子もなく言った。台所の天板をペシペシと叩く。 「ありがとうございます若葉さん」 「初めてのチャレンジで、贅沢なこったね、うみこ」にゃむが嘆息する。 「このきゅうりもゴーヤも、使っていい」 さらに睦がウリ科野菜が満載された袋を、キッチンにドンと乗せた。睦がわざわざ用意したのか。にゃむは、この睦の謎の情熱に、虫が知らせた。悪い予感。冷や汗が額をつたい、にゃむはこの場を後にすることを決めた。 「それじゃあうみこ。後はひとりで大丈夫ね?」 「はい。教えていただいた動画チャンネル、参考にしますね」 「ま、あたしも料理とかあんましないし…」 にゃむは自然な振る舞いで、スススッとその場を後にしようとする。しかしそのにゃむの腕を、睦が後ろからガシッと掴んだ。帰宅失敗だ。「むーこ!?」 「にゃむ。逃げないよね?」 「ど、どういうこと?」 「タダでここを貸すと思ったの?」睦がにゃむを掴んだまま、ギロリと海鈴を睨む。 「若葉さん、私はお弁当が…」 「私の家で」睦が掌を挙げて遮った。「料理をするなら」ふたりを睥睨する。「私の要求が通るはず」 「いや、むーこ、私は関係なくて…」 「ふたりには当然」にゃむの言葉も遮られる。「私の食べたいものを作ってもらう…」 そう言うと、大女優睦から、ただならぬオーラが漂い始める。まるで、世界中の要人がひとつの部屋に集まってきたかのように。「若葉さん…?」「むーこ…?」ふたりはギョッとした。しかし、もう遅かった。台所のテクスチャが崩壊し、番組スタジオへと変貌していく。出入り口も消え失せ、目の前には怪物が立っていた。 「見せて…!星みっつ…!私を満足させて…!」 「…ッ!」睦の妖艶な笑みににゃむが絡め取られていく。海鈴は、またよくわからないことになったと思いつつも、キャストの一役に身を投じていった。 〈初華編〉 「なるほど。話はわかりました」 ソファに座ってやすりで爪を整えながら、祥子が言った。彼女は、初華の話を、微笑を浮かべながら聞いていた。 「別にわたくしにわざわざ言わなくてもいいんですのよ。お弁当は元より作るのですし」 「でも、学校であったこと、さきちゃんに報告したいな、って…」初音がもじもじと指を組む。祥子は微笑を浮かべたまま、やすりがけする指を替えた。 「最近、仲がいいんですのね。立希や海鈴と」 「うん。学校でも友達ができてよかったな」 「最近は学外でも会うほどだとか」 「あ、うん。海鈴ちゃん、ちょっと強引なとこもあって」 「それで、随分と楽しそうにしていたそうですわね」 「…さきちゃん?」流石の初音も、微笑の祥子から漏れ出る妖気に気がつき始めた。 「立希というのはあれでいて気の多い女ですからね」 「さきちゃんどうしたの…」 「別に」祥子は知らんぷりして、爪にやすりをかけ続けている。哀れ初音は、また自分が何かやらかしたのかと、慌て始めた。 「えと、えと、私もさきちゃんに、もっと美味しいお弁当、食べてもらいたいたくて」 「…」 「私、料理はまだまだ上手じゃないし」 「…」 「ま、またさきちゃんに料理、教えてほしいなーなんて…」 「…」 「さきちゃん…」祥子は返事をしない。ずっと、爪をやすっていた。初音は、どうにもならなくなって、目に涙を浮かべた。「さきちゃん……」 祥子はべそをかく初音をチラリと見て、ようやくため息をひとつ吐いた。そして「初音」と言うと、自分の隣のソファの座面を叩いた。初音がおずおずとそこに座ると、祥子が腰を浮かせて距離を詰める。 「初音の料理は、今でも美味しいですわよ。私がすごく上手な訳でもないですし」 「で、でも、私全然」 「それ」 「ふぇ?」 「自分を下げるのは、おやめなさいと言ったでしょ?」 「あ、うん、ごめんね…ごめんなさい」 「それも。わたくしにすぐに謝るのも、悪い癖」 「う、ごめ、いや、その…」 狼狽える初音に、祥子はくすくすと笑った。妖気はもう消えていた。祥子が、頭を初音の肩に預ける。「もう!」初音の体がビクリと震えたが、すぐに静かに受け入れて、初音からももたれかかった。 「貴女はいつもそう。わたくしがバカみたいじゃない」 「えぇ、どういうこと…」 「なんでもありませんわ。…今日の夜も、わたくしの当番ですけど、一緒にお料理する?」 初音は顔を輝かせた。「うん、する!一緒にしよ!新しい料理も挑戦したいなぁ」 「じゃあ今日はちょっと冒険しましょうか」 祥子はそう言って笑うと、初音の片手を取った。ソファでお互いに寄りかかったまま、祥子は初音の爪にもやすりをかけ始めた。 ③ 【前回のあらすじ】 流れでお弁当を作ることになった花女1-B三羽烏。おのおの、頼れる人を頼り、お弁当を完成させる。いざ、お披露目へ。 「おふたりともお久しぶりです。間に合ってよかったです」 「海鈴…お前…」「何があったの…海鈴ちゃん…?」 お弁当のお披露目当日。昼休みの中庭に三羽烏が集った。しかし、立希も初華も、久しぶりに海鈴の姿を見た気がした。海鈴は、なんとなくエキゾチックな雰囲気を纏っていた。なんなら、肌の色も変わった気がする。 「いえ、お弁当の為に若葉さんたちと料理修行をしていまして」 「睦と…?」 「そこで若葉さんの国際会議に巻き込まれてしまい、お弁当の完成までに大変な苦労を」 「国際会議…?」立希は海鈴の話がひとつも理解ができなかった。同じバンドの初華もぷりぷり怒っている。 「もう!いきなり3人が台所に立て篭もるから、Ave Mujicaもちょっと大変だったんだよ?さきちゃんとふたりでなんとかなったからよかったけど…」 「なんとかなるんだアベムジカ…」 「その節はすみません」海鈴は謝罪しながら、カバンから箱を取り出した。お弁当箱だ。やけに数が多い気がした。 「では、最初は三角さんに伺いましょうか」海鈴が切り出した。「お弁当が、どんなものかを。フフフフ」海鈴は不敵に笑う。 「お前はいつも楽しそうだな…」 「えへへへ」初華もデレデレと笑いながらお弁当箱を取り出す。何の変哲もない、ごく普通のお弁当箱だ。しかし、油断はならない。海鈴が眉間に皺を寄せた。 「立希さん」 「うん、海鈴」 「パンドラの箱というのを知っていますか?」 「この世のあらゆる厄災が入っているって箱、でしょ?」 「はい。転じて開けてはいけない箱をそう呼びます」 「…ふたりとも何の話してるの?」お弁当箱を前に怪訝そうに首を傾げる初華に、海鈴が不躾に聞いた。 「そのお弁当箱、開けても大丈夫ですか?」 「えぇ…平気だよ…普通のお弁当だよ…」 「目についたものに襲いかかる眷属などが召喚されたりは」 「しないよ…」 黙ってはいたが立希も心配だった。確か、彼女のスマホはパンドラの箱だった。お弁当箱の方も、開けることで、何か恐ろしいものが解き放たれるのではないのか。あのあれに由来する、妖怪的な何かが。 初華はそんな心配をよそに、「ちょっと恥ずかしいけど」と、お弁当箱の蓋を開けた。 幸いにして、お弁当の中身は、普通のお弁当だった。以前と同じく、彩りと栄養バランス重視。しかし、手の込んだ装飾が施されていた。そぼろと卵で月と星が描かれていたり、カマボコがハートの形に切り抜かれていたり。これは、疑いようもない。 「愛妻弁当ですか」 「何でもすぐ口に出すなってお前」 「愛妻だなんて…でへへへへへへへ」初華の顔がデロデロになっていく。わかっていたことだが、ただ惚気の為だけにこのお弁当は見せられたのだ。立希は具合が悪くなってきた。栄養バランス的には、糖分過多といったところだろう。 お披露目が済んでこれで終わりかと思っていると、初華がウキウキでお弁当の題目紹介を始める。「あのね、このリバーシブルタコさんウインナーはね」 「三角さん、もう結構です」海鈴が遮った。「おせちではないので、由緒書きは全く不要です」 「ええっ聞いてくれないの!?」 「なんでこれ以上惚気を聞かなければならないんですか」 「海鈴ちゃんだって、立希ちゃんとの日記よく見せてくるじゃん!」 「あれは良いんですよ、私の想像なので」海鈴はそう言った後、勝手に泣き始めた。「ウゥゥ…私は三角さんが嫌いです…」 「身勝手なやつ…」 「さぁさぁとにかく三角さんは引っ込んでてください。私の作ってきたお弁当をご照覧していただきますよ」海鈴が初華を制し、自分のお弁当箱を開陳し始める。「私の好物、焼きそばを作ってきました」 「結局お前も焼きそば作ってきたんだ」 「も?も?も?」海鈴は立希の失言を耳聡く拾う。「いやなんでもない」立希は耳を赤くして目を逸らした。 「…そうですか…」海鈴はニヤニヤしている。「まぁ、それは後でいいでしょう」そう、どうせ後で見せることになるのだ。しかしこれは失敗だ。海鈴を調子に乗らせてしまった。 「これはですね、私が一案として伝えたところ、若葉さんが食べたいと言ったので、作ることになったんです」 「ふーん…睦がねぇ…」 「というわけでいきますね。まずは」ひとつ目の弁当箱。「ミーゴレンです」 「ミー…何?」全く聞き慣れない名前だ。 「ミーゴレンは…マレーシアの焼きそばだって」初華がスマホで調べて教えてくれた。 「続いては」ふたつ目の弁当箱。「タヤリン・サルタドです」 「タヤ…何?」やはり知らない。 「タヤリン・サルタドは…ペルーの焼きそばだって」初華がスマホを叩く。 「そして」3つ目の弁当箱。「ルッズ・ビ・シャアリーヤです。」 「何?」 「シャアリーヤは…アラビアの…焼きそば?」 「これを作るための短いパスタを、長いパスタを折ることで代用したところ、イタリアの若葉さんが強く抗議されまして」 「いや、イタリアの睦って何?」 「イタリアの睦ちゃんは…」 「三角さんそれは調べなくていいよ。出てくるわけないから」 「続いてはチャオメン…」海鈴の魔法の鞄からはお弁当箱が無限に出てくる。 「ちょっと待って。海鈴…睦のところで何があったの?」 「ですからお弁当修行ですよ。過酷でした。祐天寺さんなど、ほとんど中国人になってしまいましたし」 「あぁ〜だから会った時中華料理の名前しか喋ってなかったのかぁ」 これがアベムジカの世界らしい。立希は話の理解を一切諦めて、この会話の終着点を初華に託した。そして、かたわらに置かれた海鈴の焼きそばを一口啜った。「それはフィデウアですよ」「スペインの焼きそばだって」フィデウアは貝の旨みが効いていて美味だった。 右から左に睦焼きそばを試食しているうちに、海鈴の紹介は終わっていた。ふと、海鈴が立希の方を見ている。何かに気がついたようで、立希に問いかけてきた。 「立希さんのお弁当は大丈夫なんですか?」 「…はぁ。別に私のは普通の焼きそばだけど…」 「いえそうではなく…」海鈴が立希の横をまた指さしている。「それいいんですか?」立希は不審に思い、そちらを振り向く。 「まあまあうまい」 「の、野良猫!」そこにはいつのまにか楽奈が座っており、立希の弁当箱を勝手に食べていた。「お前また勝手に!」 「あ、それやっぱりダメだったんですか」海鈴はそう言って立ち上がる。「では阻止します。私のお弁当を返してください」海鈴が楽奈を止めようとするが、ひらりと躱される。 「海鈴のでもないけど!」などと言っているうちに、楽奈は立希の弁当に満足したのか、立希が流した海鈴の睦そばにも手を伸ばす。 「こっちもまあまあうまい」 「要さん、そっちも私のです!」 「お前それ…!…えと…何だっけ」 「らぐめん。ウズベクのおそば」 「何でお前が知ってるんだ」立希も楽奈を捕まえようと手を伸ばすが、するりと躱される。楽奈は次のそばに手を出す。「これは、ちゃじゃんみょん。うまい」 「野良猫っ!逃げるなっ!」 「立希さん、捕まえますよ!」信用の気配を感じ取ったのか、いよいよ海鈴が本気になった。楽奈が睦そばを抱えて、それらを啜りながらベンチの周りを逃げ回る。「三角さんも行きましょう」 …返事がない。見ると、初華は面倒な気配を感じ取ったからか、自分だけの星空に閉じこもっていた。「今頃さきちゃんも同じお弁当を…」外界からの介入をシャットダウンして、お弁当を味わっている。 「ダメだ、三角さんはもう役に立たない。海鈴、右から回れ」 「はい!…あ、マズいです。木に登られました」 「ぱったい。うまい」 結局その後、野良猫は睦そばをあらかた啄んで、「日本のそばがいちばんうまい」と言って、立希のお弁当を平らげて帰って行った。海鈴と立希は並んで、それを虚しく見送った。 「なんか落語のサゲみたいなこと言ってましたね」 「…燈…ごめん…」 「なんで高松さんの名前を呼ぶんですか。そんなに悲しまなくても、私の焼きそばをあげますよ。全部食べちゃっていいですから」 「ん?海鈴は食べないの?」 「太りますから」 「…」なんと無責任で、後先のことを考えない奴だろうか。「──海鈴は太ってても可愛いよ」 「え、た、立希さん…!?」 「は?え?違うから!ちょっと三角さん!人の声真似して変なこと言わないで!」 慌てる立希の後ろから、お弁当を食べ終えた初華が現れる。「あははは」初華は笑っている。さっきのは彼女の声だ。「三角……!」海鈴は青筋を浮かべていた。 「ね、おそば、3人で食べようよ」 「三角さんは太ってもいいんですか?」 「さきちゃんがいいって言ってたもん」 「アイドルはそんなわけないと思うけど…」 ゴチャゴチャと言いながら、3人は世界のそばが積まれたベンチに戻っていった。