① 「海鈴…次は何を始めたわけ?」 「見てわかりませんか?サーカスです」 立希が、中庭でまたバカなことを始めた海鈴を見るともなしに見ていた。海鈴は玉乗りをしながらジャグリングをしている。当然初華もいる。もはや中庭は、三羽烏の巣と言って差し支えなかった。 「海鈴ちゃん、八芒星ダンスやるんだって」 「やるものなの、それ?」 「見てください立希さん、ウーララー」 海鈴がさらに、火を吹きながら、チューバでお湯を沸かし始めた。立希はやはり見るともなしに見ていた。「どこへ行くんだかアベムジカ…」初華だけが、控えめに拍手をしていた。 と、そのとき。 「おわっと」 海鈴がバランスを崩した。 「海鈴!」「海鈴ちゃん!?」 ふたりが、地面に落ちていく海鈴を受け止めに行く。しかし、全ての間が悪かった。初華と立希がぶつかり、受け止める用意が消えた。そこに、上から海鈴が降ってきた。3人が、思い切り衝突する。 「いったぁ!」 頭をしたたかに打ちつけて、地面にバタバタと散らばる3人。だが幸いにして、外傷はなく、各々ノロノロと起き上がっていく。幸いにして、外傷はなく。 〈三馬鹿、いれかわる〉 それからしばらく後。 「一旦状況を整理しましょう」と、立希が言った。「えー、頭をぶつけるのは、もうやらない方針でいいですね?」 「うん、痛いだけだったし…」と、海鈴が返す。 「あ〜とりあえず、今日戻れなかったときのことを考える?」初華は、うんざりしたように言った。 しかし、この会話は、表面上はそのように見えても、実際は違った。立希は海鈴の言葉を喋っていたし、海鈴は初華の、初華は立希の言葉を喋っていた。つまり、先ほどの事故で頭をぶつけた結果、彼女ら3人は。 「入れ替わったって、そんなのどうやって戻すんだ…」 そう、入れ替わったのだ。よって今のは、初華の口から出た、立希の台詞だった。 「と、とりあえずネットで調べてみるから、スマホ交換しよ!」 「あ、ああ、うん」 「必要ですか?」 「ぜっっっったいいる!他人のスマホは!よくないから!」初華in海鈴が圧をかけた。「わ、わかりましたよ。一時的に、お互いの顔で開くようにしましょう」海鈴in立希が気圧されて同意する。 スマホを交換しながらも、各々、慣れぬ体にまだ戸惑っていた。それは身体の各パーツのスケール感も含めてだ。立希in初華は落ち着かなそうに座っていたし、初華in海鈴は神経質そうに自分の髪を撫でていた。そして海鈴in立希は…胸元が気になるようだった。 「おい海鈴」 「私のことですか?」 「お前しかいない…いや言いたいことはわかるけど、中身のお前はお前しかいないでしょ」立希は自分の顔を見ながら言った。変な気分だった。しかしそれは海鈴も同じだった。「三角さんに言われると変な気分です」 「まあそれはそうかもだけど、とにかく。私の体に変なことするなよ」 「なっ…!信用していないんですか、私のこと」 「念のためだよ念のため。今は大人しくしといて」 「今はですか?」 「…未来永劫大人しくしといて」 こう言わないと、海鈴は何をするかわかったものではない。嫌な想像をすると、立希は顔を赤くして、舌打ちをした。初華の体から、舌打ちは自然に出た。 このタイミングで、スマホを操作していた初華…見た目は海鈴…が声を上げた。 「あーっ!あったよ!入れ替わりの治し方!」 「は?そんなのあるの?」 「ネットの叡智ですねぇ」 立希と海鈴が初華と立希の体で、初華が入った海鈴に身を寄せる。 「えーとね、入れ替わりはぶつかると稀に起こるんだけど…戻すには正午ぴったりにチョココロネをババンボ様にお供えする儀式をやる必要がある…らしい!それ以外方法はありませんって!」 「は?内容はわけわかんないけど…正午?今もう昼休みなんだけど」 「ということは…最低でも明日の正午までこのままですか?」 「…そういうことになるね」 3人は絶望した顔で、しばらくベンチに座り込んだ。目の前には自分自身のしけた顔があるので、気分はさらに沈んだ。そうしている間にも他人の体が妙に馴染んでくるのもより絶望感があった。 立ち止まってるわけにもいかず、次に口火を切ったのは海鈴だった。「とりあえず、適当にお互いのフリをして明日まで乗り切りますか。確か重要な仕事とかも、無いですよね?」 「うん、私は無いね…」 「〜〜〜ッ!いや…確かにそれが一番面倒が起きないか…?私の場合は…家族とか適当にやり過ごしてもらえれば…」立希は渋面で海鈴の提案に乗る。 「わ、私もそれで構わないけど」初華もそう言った。しかし立希in初華に「でもさきちゃんだけにはぜっっったい説明してね!わかってくれると思うから!」と念を押した。 「あ…同棲してるんだっけ…わ、わかった」 立希も、祥子との桃色な空気は勘弁だったので、了承した。都合は揃っていた。立希もすぐにスマホを弄り始める。 「ん?立希さん何を?」 「今日のバイト出れないって連絡してる」 「いや待ってくださいよ!」海鈴が立希の手を掴む。絵面では立希が初華の手を。「そこは私がちゃんと立希さんとして出ますから!任せてください」 「そんなことさせると思うか?」 「まさか信用が…?」 「そのまさかだけど」 「…では仕方ありませんね」海鈴が掴む手を緩める。流石に諦めてくれたか。立希はホッとした。しかし甘かった。 海鈴が立希ボディの制服に手をかける。「立希さんの体が誰の元にあるのか思い出していただきましょうか」 「おい!!お前、なんでここからそんな卑劣な真似ができるんだよ!!!」 「目には目を、信用には信用を」海鈴は意味不明なことを言った。しかし途方もない大きさの人質を取られた立希は、それに逆らうことはできなかった。おぞましい取引だ。初華も、腰を浮かすと、ものすごい顔で立希に再度念を押す。 「立希ちゃん。立希ちゃんは、今日は真っ先に帰って家に籠ってね?さきちゃんが帰ったら速攻で、名前を呼ばれるよりも早く事情を説明してね?終わったらとっとと寝て明日を迎えてね?わかった?」彼女には鬼気迫るものがあった。立希はこれも了承するしかない。 「…わかった」初華が安心したように座る。絶対に譲れないものがあるらしい。「さきちゃんに一報入れておくからね」 海鈴が、その初華の袖を引いた。 「三角さん。私として振る舞うときの注意ですが」 「はいはい、信用でしょ?わかってるよ。別に、私も人と会わないようにするよ」初華がすげなく袖を払った。 「…あの、もっと体に見合った優しい心を…」 「いきなり何十個もバンド辞めるのは優しくないよう!」 「海鈴は友だち少ないから大丈夫でしょ」 「な、なんで私がこんなに攻撃されてるんですか?」 「私だけ入れ替わりの損が大きい気がしてきた…」 結局、海鈴だけが、確実に立希として知り合いと会う時間があるのだ。立希が完全に貧乏くじを引いている。 「とにかく海鈴は細心の注意を払って私として振る舞って」立希は釘を刺した。 「わかっていますよ…あっそうですね、立希さんだったら違いますね」海鈴は咳払いをして言い直す。 「まっかせとけ〜い!」 「うわっ海鈴ちゃんまずいよ。解像度が低すぎるよ」 「すみません、今のはちょっと力みました」 「おい海鈴…」 「あ、立希ちゃんも!それダメ!」初華が立希を静止する。「しばらくは私なんだから、もっと私らしく!そんな強気じゃなくて、人以下の可哀想なミジンコみたいに振る舞わないと!」 「じ、自己評価ヤバ…」立希が初華の闇に怯む。 「ちょままてって!だいじょぶっつーか!」横では海鈴が鳴いていた。 「もしかしてそれも私か…?」 「はい」 「それは違うよ…全然立希ちゃんじゃないよ…」 立希はため息をつく。「もうこいつは…この辺に縛りつけておこうかな…」 「だから私の体でそんなこと言っちゃダメだよぅ!やるなら黙ってやろ?」 「ちょまま!立希さんの体ですよ!?」 と、そうこうしているうちに海鈴の立希トレースが完了し、3人は午後の授業を大人しく受けた。しかしその後のそれぞれの家に帰ることを思えば、立希と初華は気が気ではなかった。実際、コトはここから拗れていくのだ。 ② 【前回のあらすじ】 体が入れ替わった花女1-B三羽烏。タイムリミットの明日まで、お互いのフリをして乗り切ることになった。 〈海鈴in立希編〉 「らーなちゃん帰っちゃった」愛音が、Ringから帰っていく楽奈を見送りながら言った。 「らーなちゃん、いくら抹茶パフェもらえなかったからって、りっきーじゃない、とまで言うかな…」 「…そういう日もあるんでしょ。野良猫なんだから」 「りっきーの方もなんか厳しかったし。今日はスパルタモード?」 「は?そんなんじゃないから」立希がテーブルを叩く。「それで?お前の注文は?」 「だからいつもの!」 「…そんなメニューはない」 「えーこのやり取り前もなかった〜?覚えてよりっきー、アールグレイのホット!」 立希は無言で引っ込んでいった。確かに、立希は、いつもより少し近寄り難い雰囲気を放っていた。しかしここにはそれをあんまり気にしない女がひとりいるだけだ。立希が注文を運んでくる。紅茶は、いつもより少し丁寧にテーブルに置かれた。 「…ねぇ愛音」 「何?」 「私さ…最近海鈴について話してたっけ?」 「海鈴って…あのベースの?」 「うん。私の──大切な人っていうか」 愛音の背筋の毛が逆立つ。「え?りっきーってそんな感じだっけ?」 「いいから。海鈴について、私なんか言ってた?」 「うーん全然記憶にないや。てゆーか、りっきープライベートのこと全然話そうとしないじゃん」 「そうかな?」立希はクールに、薄い笑みを浮かべた。「まぁ、私にも──自分だけで大切にしたいこともあるっていうか」 愛音の体に鳥肌が立つ。「何?何なの?りっきー変なものでも食べた?」 「愛音」立希がうっとりとしたような顔で愛音を見つめた。 「え、はい。なんでしょうか」 「確かに私は海鈴のものだけどさ。それでも私たちは──友達でいようね」 愛音の体がついに不整脈を起こし始める。「そよりん早く来て〜〜〜!!!りっきーが壊れた〜〜〜!!!」 〈立希in初華編〉 (家に帰って大人しく祥子の帰りを待つ…祥子が帰ったらすぐに言う…)頭で反復しながら初華は家の扉を開け、リビングへと入った。すると、想定があっという間に崩壊した。 「初音、おかえりなさい」ソファに座っている祥子。聞き慣れない名前に初華がフリーズする。「今日は早めに帰ることにしたの。貴女からの連絡があったから」 そう言う手元のスマホの画面には、「さきちゃん。ごめんなさい、今日の約束は守れそうにないです。今日は帰ったら大切な話があります」と書いてあった。さっき初華が送ったものだ。完全に報連相の悪い見本だった。 「あ、えーと、祥子…」 「さ、祥子!?」 「あ、さ、さきちゃん!いや、そうじゃなくて」 「初音。お願い。何も言わないで、聞いて」 「う…」祥子の迫力に初華が静止させられる。 「わかっていますわ。これが届いたことの意味を。それで、わたくしなりに考えてみたの」 (これ何のプレイ?源氏名?) 「確かにわたくしは、貴女に受けたものを返せていない。特に最近、貴女を不安にさせていた、と」 感情が先走り、祥子は立ち上がって初華に詰め寄ると、両手で手を握った。初華が「ヒッ」と短い悲鳴を上げる。 「でもどうか勘違いしないで欲しいの。確かに貴女とは釣り合っていないかもしれないし、まだ迷いも残っているかもしれないわ。それでも、わたくし、貴女のことを」祥子が初華の肩を抱く。初華は目をぐるぐるさせながら口をパクパクさせていた。 「貴女のことを愛しているんですのよ」祥子の艶っぽい顔が初華の眼前に近づいてくる。 「う、うぉわぁあ!」なんとか正気の糸を掴んだ初華が叫んで、祥子を突き飛ばした。「ちょ、ちょっと待った!」 起こるべきことが起こらず、突き飛ばされた祥子は、クラゲのようにそのまま地面にへたり込み、信じられないものを見る目で初華を見ていた。「…え?初音…?」 初華はこれが最後のチャンスと踏んだ。 「えーとその呼び方、一旦止めにしよ!」 「な、な…!」 「あ〜、あのね、私、三角初華じゃなくて!」 「そんなことはわかっていますわ!」 「エ゛?」 「それでもわたくしは貴女と!」祥子が縋るように、にじり寄る。しかし、近づいた分だけ、初華が一歩距離を取る。「違くて」 祥子は固まった。二度の身体的拒絶を受けた彼女は、世界の終わりを見たかのような顔をしていた。「は、は、は、初音…?」 一方の初華は恐れや困惑、そして僅かな嫌悪…マジで勘弁して欲しいという…が入り混じった目で祥子を見ていた。祥子にとっては、知らないどころか、今後知ることもないと思っていた顔だった。 「わ、わ、わ、わたくしは…」 初華も固まっていた。しかし頭の中では思考回路がフル稼働で動いていた。今、元から言うつもりだったことを言ったら、絶対事態が悪くなる気がする。しかし、この環境で何ができるのだろうか。とりあえず、彼女の得意とする技で切り抜けるしかないのでないか。 次の瞬間、初華は踵を返して、脱兎の如く駆け出していた。「ごめん!」来たルートを辿って、玄関から家の外へと逃げていく。 「お願い待って!初音──」 後ろから祥子の悲壮な声が聞こえた。しかし、あのまま耐えるよりはマシな結果になると信じて、初華は歩みを止めなかった。 〈初華in海鈴編〉 「……」 「…海鈴ちゃんの家、ひとりだと退屈だな…」 「……」 「…これ、私は自宅に帰ってもよかったんじゃ…?」 「……」 「…入れ替わるならさきちゃんが良かったなあ…」 「……」 「…いつわーるひーびーなーめらかにー…」 「……」 「……立希さぁん。信用してくださぁいよぅ」 「……」 「……ぷぷぷ、今のは似てたね」 「……」 「……豊川さん。好きです」 「……」 「………これは違うね」 「……」 「今頃海鈴ちゃんは立希ちゃんの体で好き放題してるのかな…」 「……」 「……ずるいな……」 「……………………」 「あ、もしもし祐天寺さんですか?八幡です。あぁはい、自宅からです。今何してますか?あ、そうですか。ちょっと話したいことあるので今からそっち行きますね。では」 ③ 【前回のあらすじ】 体が入れ替わった花女1-B三羽烏。立希(中身海鈴)は愛音に故障を疑われ、初華(中身立希)は祥子との関係が拗れ、海鈴(中身初華)はにゃむで遊んでいた。 〈初華in海鈴〉 「へぇ…若葉さんは意外と家庭的なんですね」 「うん。で、もらった野菜は、実家のやつと一緒に料理にする」 「祐天寺さんはどこ出身でしたっけ」 「……九州のどっか。うみこは?」 「…三軒茶屋です」 「ちょっと。ボケないでよ。それは今住んでるところでしょ」 「じ、地元は内緒なんです」 「ふーん。というか、下北じゃなかったの?」 喫茶店で海鈴とにゃむが話をしている。海鈴の前には珈琲、にゃむの前には紅茶。突然のアプローチながら、特別な話題はなく、ダラダラと雑談していた。 「なんか、うみこ、今日は大人しくない?」 「え、そ、そうですか?それを言うなら祐天寺さんも今日は優しいですね」 「うみこが優しくして欲しいなりに振る舞えば、あたしだってこうだよ」 「ぜひ他の方にも優しくしてあげてください。三角さんとか」 「まぁ、機会があればね。…誰にしろ、突然やって来るのはやめて欲しいけど」 「この喫茶店で、何してたんですか?」 「なーんにも。ひとりになりたいときって、ない?」 「…まあ、はい。私も昔はありました。そんなときも」 にゃむが紅茶を一口飲み、海鈴が珈琲を一口飲んだ。今日の海鈴とにゃむの会話は、このようにかなりどうでもいいおしゃべりだった。いつものことだ。海鈴の中身は、これでまた演技力が鍛えられているのを感じていた。物真似は彼女のお家芸だった。 と、にゃむがスマホを取り出した。誰かからの連絡らしかった。「ん、さきこからだ」 「豊川さんですか?」 「うん。なんか…ういこがこっちに来てないかって、聞いてきてる」 「エ゛?」 「これういこがさきこから逃げ出したってこと?そんなことある?」 海鈴はここで、海鈴になりきりすぎていて、中身人格のスマホを全く見ていなかったことを思い出す。悪い予感がした。海鈴がこっそりとスマホを取り出して見ると、いくつか通知が溜まっていた。 (不在着信)(不在着信)(不在着信)『初音、お願いですから帰ってきて』『一度話し合いましょう』『私の悪いところは全て直します』『もう勝手に触ったりもしません』(不在着信)(メッセージの送信を取り消しました)『ごめんなさい』『貴女がいないと私』 「ウワーーーッ!」 「ど、どしたの?うみこ」 「あ、すみません。三角さんの失踪に心当たりができてしまいまして」海鈴は顔中から冷や汗が噴き出ていた。 「心当たりってそんないきなりできるものだっけ…」 海鈴は素早く立希にメッセージを送り、席を立つ。「こちらから押しかけておいて申し訳ないのですが、三角さんの件の対応に当たらなければ。ここで失礼します」 「なんか張り切ってるけど、さきこの信用?」 「あ、はい、豊川さんの信用です。信用信用!」海鈴は焦り散らかしていた。足早に荷物をまとめる。 「あー待って」にゃむも席を立った。「それあたしも一緒に行っていい?」 「え、いいですけど、どういう風の吹き回しですか?」 「んー、さきこ困ってるっぽいし?なんかできることあれば」 「…なんだかやっぱり、今日は妙に優しい気がしますね…」 剣呑な空気の中、ふたりは並んで喫茶店から出て行った。 〈立希in初華〉 (に、逃げたけど、だからって、どこ行けば…) 祥子から思わず逃げ出した初華は、息を切らして、迷子状態だった。祥子の不必要な行動力に鑑みれば、放っておけばおくほど事態は悪化する。とりあえず、初華のスマホに、失態を踏んだ報告をしなければならない。そう思いスマホを取り出そうとしたところで、予想外の人物と鉢合わせてしまった。 「うわ、と、燈!」 「ぉぅっ…」 「…ちゃん!燈、ちゃん、どうも、こんにちは…」 燈だ。初華とは数度顔を合わせているはずだ。初華は取り出しかけたスマホをしまう。 「ぇ、ぇと、久し、ぶり」 「あ、あぁ、うん?久しぶり…」 「…」 「「…」」 当然、何も会話は生まれない。初華の中身は初華では無かったし、燈が気の利いたことをするはずもなかった。とは言え話しかけた手前、気まずい沈黙を破るのは初華の仕事だ。 「あ、あの!」 「ぉ!?」 「立希、ちゃんと、とは、最近どう?」 悲しいかな、こんな時でも、初華の中身の完全な下心が顔を出した。 「ぁ、別に、どうもない、と思う…」 「う…そっか…」初華が項垂れた。「え、えーとじゃあ、立希ちゃんとは、まだ友達?」 「ぇ?ぅ、うん!いつも親切にしてくれてて…大切な友達で…」 「…!そっか…」ほとんど誘導尋問をしただけで、初華の中身は心の中で感涙していた。燈が立希のことを悪し様に言うわけがないと言うのに。「立希ちゃんも喜んでるよきっと!」燈は初華のあまりに不可解な発言に首を傾げていた。 突然、初華のスマホが震え始める。「あっ」後ろを向いてこっそり確認すると、初華のスマホからの連絡だった。 『立希ちゃん何があったの(T-T)』 『とりあえずRing来て。直接話そ』 「ウワーーーッ!」 それを見て、初華は置かれている状況を思い出した。おそらく、祥子経由で何かしらが起こっているのだ。慌ててスマホをしまった。 「と、燈、ちゃん!私、もう行く、ね!」 「ぇ、ぁ、うん」 「…Ring行くんだけど、燈ちゃんも来る?」念のため、聞いた。 「ぇ…行かない…」 「まぁそうだよね…じゃっ!」 燈が燈であることだけを確認して、初華は再び駆け出した。燈は頭にハテナをたくさん浮かべていた。 〈海鈴in立希〉 「それで、結局私と海鈴はお揃いのリボンを買ったってわけ」 「へぇ〜〜そうなんだ〜〜」 「赤色のね…海鈴には──赤が似合うから」 「お〜〜。お〜〜?お〜〜」 「お揃いってさ…憧れない?愛音はどう?」 「いや〜どうだろナ〜そよりんはそういうのやらなさそうだナ〜」 「素直になればいいのに。そよも──私の大切な、友達だから」 「ア、アハ、アハハハ、そろそろ限界かも」 「もちろん、燈も、楽奈も──友達として好きだよ。…chu」 「ウワーーーッ!」 Ring。立希から次々に出てくる海鈴との薔薇色の日々のエピソードに、愛音は狂いそうになっていた。肌の上を変な色の虫がゾワゾワと這いまわり、耽美な背景音楽が聞こえてくる。「今日のりっきーヤバイ〜〜〜そよりん助けて〜〜〜」 と、そこへ。愛音の声に応えるように、ふたりの元へつかつかと近づいてくる影があった。しかし、そよではない。 「あれ…睦?」「え、睦ちゃん?珍しくない?」 それは睦だった。「ここ、いい?」睦は愛音の隣の席を指差した。「い、いいよ」愛音が応えると、睦がちょこんと腰掛ける。 「ジンジャエール」 「え?」 「注文。ジンジャエールちょうだい」 「あぁ、うん」立希が注文を持ってくる間、睦はいつもの無表情で空を見つめていた。しかし、いつもより機嫌が悪そうだった。 「お待たせ」 注文が来ると、睦はそれをぐぐいと、一息に飲み干した。その後、案の定目を白黒させている。「だ、大丈夫?」愛音が心配そうに聞くと、睦はすぐに平静に戻った。 「なんでもない」 「えと…睦ちゃん。何しに?」 睦はそれに応える代わりに、ふたりに問うた。 「一応聞く。今日、にゃむ、見なかった?」 「え?にゃむち?」「見てないけど」 「そう。別にいい。ありがとう」睦は、まさに睦らしい、意思のわからない顔でグラスを置いた。「喉乾いたから、寄っただけ。もう行く」そう言って睦は立ち上がった。 そのタイミングで、向こうからまた知った人影がやってきた。海鈴と、にゃむだった。「……いた…」彼女らのエントリーを目撃した睦は、そちらを睨みつけて、彼女らの方へずんずんと歩いていった。そして、にゃむの片腕を掴むと、「行くよ」と言って、出口へ引っ張って行く。当のにゃむは驚く様子もなく、黙って睦に従っていた。 そのまま、ふたりはRingから出て行った。 「な、なんだったの?あれ…」 残された3人は呆然とそれを見ていた。するとその後すぐに、ほとんど入れ違いで、初華が駆け込んできた。 こうしてRingでは中身の違う三羽烏が…愛音を交えて、卓を囲む運びとなった。 〈?〉 「むーこ!あんた状況わかってんの?」 「わかってる」 「じゃあ勝手にフラフラしないでよ!あんたは良いかもしれないけど、あたしは…」 「でも、これ、いい機会でしょ?にゃむには」 「……ッ!」 「私はこの体、気に入った。背が高いし」にゃむはそう言って、指を曲げ伸ばしした。「中も静か」 ④ 【前回のあらすじ】 体が入れ替わった花女1-B三羽烏。立希(中身海鈴)も、初華(中身立希)と、海鈴(中身初華)と、愛音(中身愛音)がRingに集う。第一案件は、祥子(中身祥子)。 「んんん…?なんか3人、ちょっと気まずくない?」 愛音の鋭い指摘に、初華の中身は(お前がいるからだよ!)と言いそうになった。しかし、愛音の前で、初華の姿で、そんなことはできない。しかも、あの初華が格好に無頓着で出てきたせいで、若干周りの注目を集めていた。初華の中身は、初華の為に、黙っていた。海鈴の中身も同じように考え、今すぐにでも祥子の件を聞きたいのを堪えて、クールを装っていた。立希の中身だけが、特に何も考えていなかった。 「りっきー、初華ちゃんと仲良くしてる〜?」 「え、ああうん。ちゃんと友達だよ」 「…なんか怪しいな〜。私、ここで話聞いててあげよか?」 「ん、じゃあお願い」 (海鈴ちゃん!なんで余計なこと言うの!?)(海鈴お前ーッ!) それでも話はなんとか進めなければならない。時は一刻を争うのだ。初華が口を開いた。 「あのさ…えーと、海鈴、ちゃんに、言いたいことだけど、わかるよね」 「わかります。話してください」海鈴が促す。 「その、雰囲気というか、ムードの問題で、あれの話する前に、さき、ちゃんから、こう、逃げちゃって」 「えーっ?初華ちゃん、祥子ちゃんと喧嘩したってこと?」愛音が口を挟んだ。 「喧嘩というわけでは…」初華が口ごもると、立希が得意顔を見せつける。「ふーん、三角さん、やらかしたんだ?私は、愛音とも上手くやれてるのにね」初華が立希をギロリと睨んだ。 「なんでここで私?」愛音は引き合いに出された理由が掴めていない。 「…つまり、豊川さんがぐいぐい来たので、思わず、ということですね?その逃げ方が、かなり誤解を生むようなものだったと」海鈴が憤然として、初華を詰める。その顔は、初華だった時よりも、ちゃんと怒って見えた。「まあ…豊川さんが突っ走りがちなことは認めますが。三角さんが豊川さんと諍いなど、本来はあり得てはいけません。ふたりは仲良しです」海鈴は目をかっ開く。「う…ごめん…」初華が思わず謝った。 「…ん?海鈴ちゃんはなんで、初華ちゃんたちの事情をそんなに気にするの?」愛音が無神経にも、真っ当な疑問を口にする。 「そ、それは…」海鈴が僅かに口ごもる。「…同じバンドの仲間だからじゃないですか!信用!信用!」海鈴が手を振り上げた。ほとんどヤケクソだった。 「お〜ちょっと親近感?」 「海鈴」立希も不意に声をかける。「私はお前のこと、信用してるからね」 「ありがとうございます。立希さん。私もですよ。chu」海鈴はヤケクソのまま、立希にキスを投げた。 「お、お耽美だね〜ふたりとも」愛音は若干引いていた。 「やめよう?立希ちゃん?そんなことしてる場合?」初華が殺気すら孕んだ目で立希を睨む。 「三角さん、嫉妬?海鈴は私のものだから」立希がせせら笑った。邪悪な冗談だ。ダメージのない彼女だけが、完全に状況を楽しんでいた。初華はワナワナと震えている。海鈴は、もはやそれらを無視して、軌道を修正する必要を迫られていた。 「ともかくです。事情がわかったので、やっと豊川さんに連絡を入れられますね」そう言ってスマホをテーブルの下で打とうとする。 「え?初華ちゃんが直接送っちゃダメなの?自分から話した方がいいよ、そういうの」愛音が無神経にも、全くもって真っ当な疑問を口にする。 海鈴も初華も少し苦しそうな顔をした。「そういうわけにも…」海鈴が「え〜と、豊川さんは今、三角さんと落ち着いて話せないと思うので…」などと言い訳する。 「ふ〜ん…」この答えに、愛音はあまり得心がいっていないようだった。「海鈴ちゃんが、初華ちゃんのために、祥子ちゃんと、かぁ…」 「流石海鈴。こういうとき、信用されてるからね。バンドの中でも」 「立希ちゃん。黙ろう…!」 「まあまあ。信用信用!」今にも立希を締め殺しそうな初華を海鈴が制止する。彼女も余裕が無くなり演技が雑になっていたが、普段とそんなに差が無いので誰も気に留めていなかった。 (なんか、すんごい怪しい…) 愛音は訝しんだ。3人のやりとりは不自然すぎる。胎内のあのん袋からあのん液が分泌され、あのん脳みそが4倍の早さで稼働し始める。人の噂や人間関係は、彼女の専売特許だ。愛音は、この3人の事情を、推理した。 (りっきーと海鈴ちゃんは付き合ってるはず。でも海鈴ちゃんは初華ちゃんの事情をやけに気にしてる。その初華ちゃんは祥子ちゃんとトラブってて、そのトラブルを海鈴ちゃんがなんとかしたそう。というかする必要がありそう?りっきーの方は、なんか初華ちゃんを揶揄ったりしてるね。で、初華ちゃんはやけにりっきーに攻撃的…) コンピュータよりも早く正確な、聡明なるあのん脳みそが、一つの回答を弾き出した。 (海鈴ちゃんと初華ちゃんが浮気して、祥子ちゃんにバレたんだ!バンド内不倫!!!それで、りっきーは海鈴ちゃんを手放す気がないから、外野から茶々入れてるわけね。つまりこれは…) 愛音は3人を睥睨した。 (修羅場!!!!!) 「じゃあ、オッケーですね?豊川さんに私から連絡できたら、あとは明日なんとかしましょう」海鈴が言った。初華もホッとしたように一息つく。ひとまずは沈静化だろうか。 「ちょっと!何落ち着いてるの!」否だった。愛音が立ち上がった。「りっきーが私にこの場にいて欲しいって言った理由、わかったよ。3人とも不器用すぎ!」愛音が机を叩いて息巻いた。 「え?」立希は困惑した。当然そんな理由は無い。 「あのね、言わせてもらうけど、これ時間が解決するような話じゃないよ?当事者だけだと、絶対拗れるからこういう話!」 「な、何を言って…」 「初華ちゃん!もっとしっかり祥子ちゃんと向き合わないとダメだよ!」 「い、いや、三角さんと豊川さんはいつもはよくやってますよ」なぜか海鈴が答える。 「海鈴ちゃんも!口だけじゃなくて心を尽くさないと!」 「う、海鈴の心は伝わってるよ」なぜか立希が答える。 「りっきー!挙動不審はともりんの前だけで十分でしょ?」 「た、立希、ちゃんは、普段はそんな不審じゃないと思うよ!?」なぜか初華が答える。 「もう!なんでみんなもっと自分のこと言わないの〜!?」 (((だって自分じゃないから……!!))) 「決めた。私、とことん付き合うし、立ち会うから。今日のうちに、顔突き合わせて、ちゃんと祥子ちゃんと話し合お!」 「愛音、ちゃん、別にそんなこと」初華は、やはり外見が初華のせいで、強く出られない。 「りっきー!」愛音が立希に向き直った。 「な、何?」 「バンド内トラブルだけど、これ、りっきーの甲斐性の問題でもあるんだからね」 「そうなの?」 「そうだよ!他人事みたいに!バンドの外でも、もっと毅然と対応しないと。浮気とかさぁ」 浮気と聞いて、立希の目の色が変わる。 「もう今日ここで祥子ちゃんと話つける。りっきー、それでいいね?」 「ああうん、いいよ。そうしよう」 (海鈴ちゃん!バカ!武道館級のバカ!)(海鈴、お前を星にしたい…!) 「「あ、愛音ちゃん」」海鈴と初華が愛音に声をかけた、その時にはもう遅かった。 「はい!もう祥子ちゃん呼んだから!」と、愛音がTALKの画面を見せてきた。嗚呼、頼れる女千早愛音。祥子が、来る。3人の耳には、アルレッキーノのタップダンスの音が響いてきた。 ⑤ 【前回のあらすじ】 体が入れ替わった花女1-B三羽烏。集うは立希(中身海鈴)、初華(中身立希)、海鈴(中身初華)、そして海鈴と初華の浮気を誤解した愛音(中身愛音)。さらに愛音が、祥子(中身祥子)を召喚し、場をかき乱す。 「愛音さん。連絡、ありがとうございますわ」 祥子の到着は人間とは思えないほど早かった。彼女は人知れず少し泣いた後だったが、愛音に連絡をもらったときに、自分のスタンスを決め、涙の跡を隠して来ていた。 「さて、せっかく話の場を設けていただいたのだから」彼女のスタンス、それは。「きちんと話し合いましょうか」 全てを巻き込み薙ぎ倒す、暴走機関車。傲慢で高慢な、あの豊川祥子。彼女の初華が離れて行くなら、その原因を潰すまで。 「詳しく、話を聞かせていただけるかしら…」 そして彼女は…その原因を自分以外に求めようとした。都合のいいことに、ここでは全てを知った愛音が、真実を教えてくれるのだ。 「ほら!海鈴ちゃん!祥子ちゃんに言うつもりだったんでしょ!」愛音が促した。「海鈴が話してくれますの?」祥子も食いつく。 「わ、私ですか!?」海鈴が狼狽えた。その中身は肝心かなめの初華その人だ。「えーとですね、三角さんに悪気はなくてですね」 「もーそんなことじゃないでしょ?」 「え?」 「海鈴ちゃん、初華ちゃんとの関係をちゃんと説明しないといけないんでしょ?」 愛音の言葉に、祥子が「どういうことですの?」と聞いた。少し苛ついて見えた。 「初華ちゃんが祥子ちゃんから逃げた件を海鈴ちゃんが説明できるって」 「そ、そう言うわけでは」 「…そういうことですのね」 「そういうことって、何ですか?」余りにも速い祥子の得心に、海鈴はさらに、さらに狼狽える。祥子が彼女を鋭く睨みつけた。 「貴女が盗ったのね。初華を。あれだけ信用信用とうるさい人間が」祥子の言葉に海鈴が言い訳するより早く、立希が割って入った。 「祥子。海鈴はそんなことしないから。私一筋だから」 「まぁ立希。随分とパートナー想いですのね?でも貴女には何も聞いていません」 「祥子は、もっとバンドメンバーのこと信用しなよ」 「た、立希、ちゃん、その辺で…」立希と祥子との関係が無駄に悪化しようとしているのを見て、初華が口を出した。当たり前だ。何故ここでまた、祥子と拗れなければならないのだ。 「でも立希ちゃん、海鈴ちゃんにゾッコンっぽいしな〜」愛音が呟く。 「え゛!何それ?今日なんか言ってたの?」 「あら初華…随分海鈴と立希の事情に興味津々なことですわね?」 「あ、いや、これは」 「もう結構。お黙りなさい。貴女がまともな返事をしないから、コレに聞いてるんですのよ」祥子にピシャリと言われ、初華はそれ以上の言を紡げなくなった。「それとも何?貴女の方から、わたくしよりも海鈴を選びました、とでも言ってくれるの?」 「そんなわけないですよ!!」横から海鈴が叫んだ。「三角さんには豊川さんしかいませんから!」 「うわーなんか責任逃れの不貞者って感じの台詞…」 「し、信じてくださいよ!私のことは信じなくてもいいので、三角さんのことは信じてください!」 立希が慌てる。「ちょっと、海鈴!信用を手放しちゃダメだって!」 一連の要領を得ない会話が祥子にストレスを与え、徐々に彼女の箍を外してゆく。危険な兆候だ。 「なんなんですの?誰も彼もひとのことばかり。海鈴、ご自分のしたことにくらい責任を持ったら?」 「ですから、何にもしてないんですって」 「では、貴女が私に説明してくれることとは?」 「そ、それは…」 実のところ、海鈴の中身はこの状況に殆ど耐えられていなかった。ただ、現実離れした感じと、海鈴として振る舞わなければならないという強迫観念めいた思いだけが、彼女を支えていた。畢竟、海鈴からの返事などできるわけがない。代わりに立希が海鈴と祥子の間に立った。 「やめなよ祥子。これは三角さんが言えないから、代わりにやろうとしてくれてるんだよ」 立希は祥子をキッと見つめている。愛音が「りっきー騎士モードは今じゃないって…」と小さく漏らした。祥子も、一切ひき下がりはしない。 「へえそうですの。では初華!なぜわたくしに直接言えないのかしら!?」 「うぅ…」初華の中身の方は、いつものように声を張り上げることもできず縮こまる。 「ほらごらんなさい。誰も彼も、後ろめたそうな顔をして!」 愛音が、段々全てに攻撃的になっていく祥子に危ない気配を感じ、「さ、祥子ちゃんも一回落ち着こ」となだめにかかった。この類の空気には敏感な女であった。「ほらさ、事情がなんであれ、このままヒートアップしてバンド解散とか、嫌じゃん?」 「これはわたくしたちの個人的な問題ですわ。バンドは関係ありません」 「いや、人間関係と直結すると思うよーバンド問題は…」 「わたくしのバンドです。もうどうなろうと誰もやめさせません。部外者は口を挟まないで」 「え、何?その言い方。私、心配して言ってるのに!」 愛音と祥子まで諍いを始め、場の空気が最低値を更新した。このままではすべてが終わりだった。しかし、3人の中に上手に場をまとめる力など残っていなかった。今更、どうして、真実を言えようか。 「祥子ちゃん、もうちょっと人の好意をさぁ!」 「余計なお世話です!」 ここで海鈴…中身は初華…が、動いた。羽丘のふたりが言い争う隙を狙って、初華…中身は立希…の手を取って、Ringからの離脱を狙った。「う、海鈴ちゃんの家、行こ。ここやだ」小声で声をかけ、腕を引いて行く。 「い、いやここで逃げるのは流石に悪手じゃ?」初華の中身の注意は、海鈴の中身には届かなかった。祥子との関係悪化を目の当たりにした今、もはや海鈴の中身に、正気を保つ力は残っていない。彼女は一刻も早くここを離れたかった。 「ちょっと」立希…中身は海鈴…がすぐにそれを追いかける。ひとりで取り残されるのはごめんだった。三羽烏の方向が、久しぶりに揃う。3人が駆け出した。 「あーーーーっ!逃げたーーーーっ!」 すぐに愛音が気づいた。「また逃げますの!?!?」祥子がブチ切れている。先ほどの三角宅での殊勝な様子など微塵も残っていない。修羅の姿だ。 「追いかけますわよ!」「おけ!」すぐに祥子と愛音が停戦して追ってきた。 「ずっと喧嘩しててよ〜」三羽烏は逃げるが、慣れない体よりもふたりは速い。相当なスピードを出さなければ… と、そのとき。 「おわっと」 初華の手を引いていた海鈴が、バランスを崩した。タイミング悪く、Ringのあまりにも急な階段の上で。当然、手を引かれた初華の視界も傾いていく。「私!」立希が、ふたりを支えようと、混乱した呼びかけと共に、手を伸ばした。「私!?」初華が立希の手を掴む。しかし、慣れない体でふたりを支えることはできなかった。 結局、3人もろとも、Ringのあり得ないほど急な階段を転げ落ちていった。 「「「ウワーーーッ!」」」 「あ、なんかデジャヴ!」 「言ってる場合ですの!?」 愛音と祥子も急いで、Ringの常軌を逸して急な階段を駆け下りていった。 階段の下の地面に、バタバタと散らばる3人。だが幸いにして、外傷はなく、各々ノロノロと身を起こす。…幸いにして、外傷はなく…? 「うぅ……ん?」 「お、おや…?」 「あ、あーっ!」 愛音と祥子が駆け寄ってくる。「ちょっと、大丈夫ー!?」「大丈夫ですの!?」 初華が祥子の方に目を向けた。その目には涙が浮かんでいた。すぐに起き上がり、祥子の方に駆け出して、祥子に抱きついた。 「うわ〜ん!さきちゃ〜ん!」 「ちょ、ちょっと、は、初華!次はいきなりなんですの?」 「ごめんなさい〜!」堰を切ったようにポロポロと泣に出す。揺らいでいたアイデンティティが突然戻ってきて、今や彼女の存在を支える、たったひとりの家族に縋りついた。「もう逃げないから〜!」 祥子は初華の頭をポンポンと撫でながら、ホッとしたような顔をしていた。人肌の温もりが、落ち着きを呼び戻す。他の3人は側でその様子を見ていた。 「ほ、本当にいきなりですわね…さっきまでの態度は一体何?」 「あ、あれは…」初華が指をさす。「海鈴ちゃんのせいなんだよ〜」初華はもう祥子以外はどうだってよかった。 海鈴は喜びを噛み締める間もなく、突然飛んできた弾を受けた。 「私ですか!?」  「確かに…」立希が顎に手を当てた。「よく考えたら海鈴が悪い部分が多い」 「立希さん!?」 「やっぱりそうですのね!?」 「え、りっきーなんで掌返したの?」 「多分だけど、海鈴が三角さんを脅してたんだと思う」 「立希さん!?!?」 「そんなことだろうと思いましたわ」 「りっきー別人みたいなバックスタブだね」 あまりの変わりように愕然としている愛音の肩を、立希が叩いた。「愛音…私、正気に戻ったから。今日話したことは全部忘れて」 「え?あの階段、人格おかしくする機能とかあるの?」 「見なよ」立希は海鈴を指さす。「海鈴はそんなに変わってないでしょ」その先では海鈴が祥子に抗議していた。 「ちょ、ちょっと!私は本当に何にもしてないんですけど!信用!」確かに、愛音には違いがわからない。 その様子を祥子はポカンとした顔で見ていた。彼女の胸では初華がズビズビと泣いている。あるべきものがあるべきところに収まったような…それを見ていると、色んなことがどうでもよくなってしまった。 「ハァ〜」祥子が深くため息をついた。「何が何やら…ひどく疲れましたわ。皆さんに怪我がないようなら、わたくしもう帰ります」 「えー祥子ちゃんもいきなり…もういいの?」 「もういいですわ…初華が戻ってきたし…海鈴は元よりこんな感じだし…」 「信用〜!?」 祥子は初華を引き剥がすと、手を引いていった。「じゃあ行きますわよ」 「ゔん…」初華はもう飼い犬のように祥子に従うだけだった。 「あ、三角さんちょっと、スマホだけでも…!」 こうして、祥子に引き摺られて帰って行く初華を海鈴と立希は見送った。愛音は意味不明な展開に目が点になっていた。 「え?なんか解決した?どういうこと?」 「祥子の問題はいつもあんな感じだ…嵐のような自己解決…」 「信用!?」 「海鈴、鳴き声みたいになってるよ」 「信用…あ、すみません。私、これからどうなるんでしょうか?」 「さぁ…祥子経由で信用が目減りするんじゃない?」 「信用〜」海鈴が鳴いた。愛音はくすくすと笑った。立希が眉根を寄せる。「何笑ってるの」 「え?りっきー、やっぱり海鈴ちゃんと仲良いじゃんね」 「ジョーダンやめてよ…」 「まぁなんか解決したならよかったよ。またバンドの解散見ることになるかと思ったし」 「それもジョーダン」立希がウンザリした顔で手を上げた。 「立希さん」海鈴が手を広げる。「喜びのハグでもしておきましょうか」 「私、仕事に戻る…」立希が海鈴を無視して階段の方へ戻っていく。愛音も、それに倣う。手を広げた海鈴だけが取り残された。「信用……?」 少し歩いてから、立希が立ち止まって振り向いた。「あぁそうだ。海鈴」 「はい信用」 「お前、明日学校ちゃんと来いよ」 「うわっ!りっきー、そのセリフヤンキーすぎ!」 …そう、短い間でも、海鈴がやっていたことは確認しておかなければならなかった。まだ三羽烏には、事後処理が残っていた。 ⑥ 【前回のあらすじ】 体が入れ替わった花女1-B三羽烏。立希(中身海鈴)、初華(中身立希)、海鈴(中身初華)は、数々のトラブルを生みながら階段から落ちて元の姿に戻り、それぞれの家へと帰っていった。 3人とも、自分の体で、自分の家で一晩を越して、学校にもキチンと来ることができた。そして、昼休み、事後確認のために三羽烏のアジト、中庭に集まったのだった。 「ふわぁぁ〜…あ、あいたたた」 集まるなり、初華は大きな欠伸をして、腰を抑えた。それで、海鈴が会話を始めた。 「どうしたんですか三角さん」 「え?なんでもないよ…」 嘘である、と立希は気がついていた。初華の寝不足と腰痛の合併症は、原因を簡単に推測できた。そもそも声が枯れてるし、首元に見え隠れする大きな絆創膏で全てが台無しだった。初華はバレないと思っているのだろうか? 「マジで元に戻ってよかった」 「そんなのみんな同じだよ…いててて」 「いえ、三角さんの体というより」と、海鈴が言った。確かに、どう考えても、それよりも気になることがあった。「それ、なんなんですか」海鈴が、例のものを指さす。 それは初華の頭の上に乗っかっている奇妙な物体…いや生物か?タコのような、クラゲのような、浅葱色の小さな軟体生物が、複数の触腕をうねらせて蠢いていた。頭の両脇に小さいリボンがついていて、正面のふたつの小さい目はこちらをジロジロ睨んでいる。 「朝から気になってはいたんですが、誰も突っ込まなかったので」 「ああこれ?なんか、さきちゃんの眷属だって」 「眷属…」 「昨日色々あったから出せるようになったんだ。索敵とかに使えるって…よくわかんない」 「索敵……」 「これ、ずっとくっついてるの。カワイイよね」 「カワイイ…か?」立希は、謎生物をじっくり見たが、微妙に祥子に似た小憎たらしい顔をしている。「なんでこんなに睨まれなきゃ」 「コードキルキスウー」 「うわっ喋った!」 「まあそんなものはどうでもいいですが」「どうでもよくもないだろ」海鈴は、初華に詰め寄った。「豊川さんの誤解を解いておいてください。私のイメージの問題があります」 「祥子ちゃんもうあんまり気にしてないよ」 (三角さん抱いたら全部忘れるのか…?) 「それに海鈴ちゃんのイメージなんて、そんな変わらないから大丈夫!」 「…それ褒めてます?」 「当たり前だよ!信用信用!」 「三角さん、海鈴成分が抜けてないよ」 「なんか褒められてる感じがしませんね」 「いや海鈴、海鈴のおかげで入れ替わりの犠牲が少なくて済んだんだ。──ありがとう」納得のいってなさそうな海鈴を、立希が適当にほめそやした。 「クッ…立希さん…不意打ちで優しくするのは卑怯ですよ…」 「おおっ立希ちゃん、女たらし〜」「タラシデスワ~」 初華が囃すと、眷属が追従した。めんどくさいものが生まれたものだ。立希はため息をついた。 「まあ…海鈴にも、まだやることがあるから?」 「ん?なんのことですか立希さん?」 立希が海鈴に手を差し出す。「スマホ出せ」 「な、なんでですか!」 「お前、私の体で、着替えたでしょ」 「…何にもしてないです!」 「そんなわけはない。とにかく出せ」 「立希さぁん!信用してくださぁいよぅ!」 「ワハハハ!やっぱり本家は違うね!」海鈴の必死の懇願に、初華が爆笑した。「ホンモノデスワ」 海鈴が渋々スマホのカメラロールを立希に見せた。「ほら、撮ってないでしょう!?」 「プライベートアルバム」 「へ?」 「プライベートアルバムも見せろ」 「クッ…わかりましたよ…」抜け目ない立希に、海鈴が仕方なさそうに非表示リストも見せた。「これで信用していただけますか?」 「うっ…この写真も本当は消して欲しい…」立希はそれでも海鈴の非表示リストを見るのが苦しいようだった。「な、何が写ってるんだろうね…」「オトメノヒミツデスワ」 海鈴がスマホをしまった。「これで信用は回復しましたね」 「カバンの中」 「へ?」 「カバンの中の写真も出せ。ネタは上がってるんだよ」 「クゥッ…!」立希の容赦ない追求に海鈴が怯む。「自分用でもダメですか…?」 「自分用って何。まず用途があるのが不気味なんだけど」 「わ、私も自分用のさきちゃんの写真あるよ」「ハズカシーデスワ」 「三角さん、いつも思うんですが、それは何のフォローなんですか?」 「海鈴、早く出せ」 海鈴はやがて観念して、鞄からチェキ機とチェキを出した。「ちょっとポーズを撮っただけですよ」チェキには制服でカワイイポーズを取る立希の自撮りが写っている。「カワイイね〜」初華も写真を覗き込んだ。頭のタコが触腕で初華をポカポカと叩く。言われた方の立希は、赤面していた。 「やっぱり撮ってたか…」 「これで最後です!」海鈴が降参のポーズをとって打ち切りを宣言した。 「靴底」 「へ?」 「靴底に隠してるだろ。写真」 「なんでそんなのわかるんですか!?!?」 「これは勘。でもあるんでしょ?出せ」 「い…」海鈴が震える。「い?」 「嫌だぁ!」 「うわ!海鈴ちゃん!?」 「嫌だ〜嫌だ〜これだけは!お願いです!持たせてください〜!」海鈴は咽び泣いて懇願し始めた。立希は屹然と立っている。「出せ」「嫌なのです〜」 「な、情けなさすぎるよ海鈴ちゃん…」初華はしょぼついた顔で海鈴を見ていた。「ハツネモタイガイ」「あ、それダメ!」失言した頭のタコをふにふにと潰す。 立希が、ごねる海鈴を押さえつけて靴をはぎ取ろうとする。「お前が愛音に怪文書を読み聞かせたせいで大変だったんだよこっちは!」「そ、そんな!おおむね事実をお話したのに!」「姑息な真似をしてからに」「だって立希さん、気が多いんですよ!」「お前との関係は重要機密だっ」「あ、やめて。靴取らないでください」 ドタドタと揉み合うふたり。初華が頭のタコを潰しながら涙した。「こんな光景、ファンに見せられないよ海鈴ちゃん…」「モガモガ」 低レベルなもめごとをするふたりに、中庭の隅からすすっと近寄る影があった。初華がいち早くその姿に気がつく。「あれ?」 その人影は他所を見ずに立希の元で立ち止まると、その袖を引っ張った。立希が海鈴を取り押さえるのをやめる。「あ、た、助かりました…」解放された海鈴が逃げていった。 立希が振り向いて人物を確認する。「お前は…野良猫?」後ろにいたのは楽奈だった。声をかけられた楽奈は曖昧に頷くと、再度袖をくいくいと引っ張った。 「どうしたんだよ。制服も着ないで。抹茶はないけど?」 すると、楽奈が口に手を当てて内緒話のポーズをとった。「立希ちゃんに秘密の話があるんじゃないかな?」「フフッフ~」 「あー…しょうがないな…」立希が身を屈めて、楽奈に耳を寄せる。楽奈も口元を寄せて、小さな声で話しかけた。 「立希ちゃん。ごめんね」 「…たきちゃん?」 「もう頼れるの立希ちゃんくらいで」 「まさかお前……」 楽奈は、か細く高い声で、言った。 「私の体で遊んでるらーなちゃん、捕まえるの手伝ってくれない?」 ──── 「そよりん、今日はなんか猫っぽいね〜」 「こうちゃ」