逃げなければならない。 ただその一念だけが、小さな体を突き動かしていた。 ティンカーモンは傷だらけだった。翅は片方が裂け、もう片方もまともに羽ばたけない。 それでも彼女は暗い通路を必死に飛んでいた。 ここはデジタルワールド・ナラカ。 ペアレンシズ帝国の研究施設、その最深部。 背後から足音が迫る。 「逃がすなァ!」 低く濁った咆哮。 追ってきているのはサイクロモン。 巨体。凶暴。暴力衝動だけで突き進む破壊者。 ティンカーモンは歯を食いしばる。 (見つかった……でも、渡さない……!) 必死に抱えた粗末な布袋の中で、「廃棄予定・失敗作」と烙印された黒いオブジェ"闇のスピリット"が、脈打つように不気味に光っていた。 息は荒く、視界は滲む。 ペアレンシズ帝国は、色違いの強力な亜種デジモンが通常種を「劣等」と断じ、拷問と実験で支配する完全なディストピア。 ティンカーモンはそこで、無数の通常種が「材料」として解体され、データごと消される光景を何度も見てきた。 闇のスピリットは、それらを糧に産み出された最悪の失敗作。 デジモンとの融合実験では強大な力を与える代わりに、理性と自我を溶かし、底なしの殺戮衝動だけを残す怪物を生み出すことしか出来なかった。 だが彼女はこれに縋るしかなかった。 これは力だ。 世界を変えられるかもしれない、危険な力。 帝国はまだ、このスピリットが持ち出されたことに気づいていない。 だが、一匹の妖精型デジモンが禁忌の区域を脱出したという事実は、すぐさまナラカ全土に知れ渡った。 ティンカーモンの視界の先、次元の歪みが光り、渦巻いている。 "ゲート"だ。 違う世界へと繋がる、唯一の希望。 その先に何があるかは一部のものを除いて知られていない。 傷ついた翅が悲鳴を上げる。 掠めたサイクロモンの腕が壁を叩き壊し、瓦礫が飛び散った。 衝撃波で小さな体が木の葉のように舞う。 「ぐっ……!」 地面に叩きつけられ、意識が揺らぐ。 ゲートまで、あと数メートル。 振り向けば、片目だけがぎらつくサイクロモンが腕を振り上げていた。 「終わりだァ!!」 振り下ろされる一撃。 その瞬間、ティンカーモンは最後の力で跳んだ。 光の中へ。 衝撃とともに、世界が反転する。 それでも彼女はスピリットを手離さなかった。 ゲートの渦に飛び込む直前、ティンカーモンは血の混じった唾を吐き捨て、異形の空を睨みつけた。 次に目を開けた時、そこは青空の下だった。 木々が揺れ、風が頬を撫でる。 ナラカには存在しない、穏やかな空気。 (ここが……別世界……) 安堵が、遅れてやってくる。 だが同時に、限界も訪れた。 ティンカーモンの視界が暗く閉じていく。 腕の中のスピリットを抱きしめたまま彼女はその場に倒れ込み、意識は急速に遠のいていった。 「でさぁ、マジであの先生さ、声デカすぎじゃね?」 「ふふ……確かにちょっとびっくりするよね。」 「授業に集中しなさい、頼子。」 ここは少し内陸にある地方都市、紙戸市。平凡な公立中学、2年A組の教室。 影山頼子は頬杖をつきながら、だらしなく笑っていた。 金髪ツインテール。 派手な見た目、そして言動から成績はお察し。 おっとりした声で突っつくのは友人・みな実。 眼鏡をかけた真面目なもう一人の友人、なつ子がため息をついた。 「えー、なつ子、マジメすぎー。」 「あなたが適当すぎるのよ。」 いつもの日常。変わらない時間。 ずっと続くと思ってた。 放課後、三人はいつものように学校裏の小さな古い神社へ寄り道した。 「マジでありえなくない? 明日の数学の小テストだって!」 五月の湿った風が吹き抜ける昼さがり。 頼子は、自慢のツインテールを揺らしながら、石段を跳ねるように登っていた。 「頼子が勉強してないだけでしょ。あと、さっきから歌ってる自作の曲、音程外れすぎてて耳が痛いんだけど」 「ひっどーい! なつ子、マジで辛口すぎ! これでも将来は歌って踊れるカリスマギャルになる予定なんですけどぉ!」 「よりちゃん、騒ぎすぎ。」 ケラケラと笑い合う三人。 彼女たちにとって、この神社へ続く道は、面倒な授業や日々のストレスから解放される聖域だった。 「……あれ、何?」 みな実が指差した先、苔むした鳥居の奥、石段の陰に、血まみれの小さな影が倒れていた。 「……人形?」 「違う……動いてる……」 三人は恐る恐る近づいた。 そこに横たわっていたのは、体長30センチほどの、美しい翅を持つ少女のような姿をした生き物だった。 体中が傷だらけで、ぼろきれの様な布袋を抱えている。 「う、嘘……。妖精さん?」 なつ子が冷静に観察しようとするが、その「妖精」、ティンカーモンは、苦しげに喘ぎながら頼子を見上げた。 「……に……げて……」 「え? なに? 喋った?」 「くる……追っ手が、くる……っ」 それがティンカーモンの最後の言葉だった。彼女はそのまま、ガクンと首を落として気絶してしまう。 「ちょ、ちょっと待って! マジでどういう状況!? 警察? 病院? それとも動物病院!?」 パニックになる頼子だったが、なつ子が周囲を警戒しながら言った。 「警察に言っても信じてもらえないわよ。とりあえず、誰にも見つからない場所に運ばないと……。 頼子、あんたの家、今日親御さんいないんでしょ?」 「え、あ、うん。夜まで仕事だけど……」 「決まりね。運びましょう。」 こうして、ティンカーモンは頼子の部屋に連れ込まれた。 ベッドの下に隠し、頼子は適当な消毒液とピンクのキャラクター絆創膏で傷を覆った。 まるで人形遊びのように。 これが、彼女たちの「日常」が終わりを告げる、最初の鐘の音だった。 「ここは……?」 夜。ティンカーモンが目を覚ました。 「あ、起きた! おはよー、妖精さん! 具合どう?」 頼子が顔を覗き込む。ティンカーモンは驚いて飛び起きたが、翅の痛みで再び沈み込んだ。 「ニンゲン……? ゲートを抜けたのね……」 「ゲートとかよくわかんないけど、あんたボロボロだったよ。あ、あたしは頼子。よろしく!」 ティンカーモンは目の前の人間を観察する。 悪意は感じられない。それどころか自分を手当てしてくれた。 今は彼女の厚意に甘えるのがよさそうだ。 「はい、これ、栄養ドリンク。お口に合うかわかんないけど」 差し出されたストロー付きの瓶を、ティンカーモンは怪訝そうに見つめた。 一口飲むと、その刺激的な味に目を丸くする。 「……悪くないわね。」 そのまま勢いに任せて一気に飲み干す。 「助かったわ。…自己紹介がまだだったわね。私の名前はティンカーモン。」 彼女はぽつりぽつりと語り始めた。 自分がデジタルワールド・ナラカという世界から来たこと。そこが『ペアレンシズ帝国』という恐ろしい軍団に支配されていること。 そして、自分たちが持っている常識が通用しない「色違いの亜種デジモン」たちが、世界をディストピアに変えてしまったこと。 「ナラカはもう、あいつらの手の中。 次は、この世界にも手を出すでしょうね。」 「この世界が……? マジ? 映画の見すぎじゃないの?」 頼子は実感が湧かない。無理もない。 明日の小テストを気にするような少女にとって、世界の危機など別次元の話だ。 「奴らに好き勝手させないために私は逃げてきた。 この最後の希望、"闇のスピリット"を使いこなせる救世主を探し出してナラカを救うのよ。」 ティンカーモンが布袋の中からオブジェを取り出し、頼子へと見せる。 「希望、ね。趣味の悪い置物にしか見えないけど。」 頼子が闇のスピリットをひょいと持ち上げた。 ドクン! その時、闇のスピリットは確かに反応を示した。 「今のは…?まさかね。」 「ん?どしたの?」 「……なんでもないわ。ただの予感よ。」 ティンカーモンはそう言って、闇のスピリットを布袋に戻した。 …その夜、頼子は夢を見た。 紅い月が浮かぶ空の下、無数の瞳に見つめられながら、自分が自分ではなくなっていく夢。 何かに、内側から食い破られるような、そんな感覚。 だが、起きた時にはそのことはきれいさっぱりと忘れてしまっていた。 翌朝、五月の晴天はどこまでも残酷に澄み渡っていた。 頼子は鏡の前で、いつも通り入念にツインテールを整え、ピンクのカーディガンを羽織る。 「じゃあ、行ってくるね。お留守番、よろしく。」 「頼子、気をつけて。……何かあったら、すぐに逃げるのよ。」 「そんな大げさな。」 ベッドの下で丸まっているティンカーモンに声をかけ、頼子は家を出た。 昨夜聞いた「世界の危機」なんて、一晩寝ればお伽話のように思えた。 だって、通学路のコンビニにはいつも通りトラックが止まっているし、すれ違うサラリーマンは退屈そうに欠伸をしている。 「おはよー、よりちゃん!」 「あ、みな実。なつ子は?」 「先に行ってるって。 ほら、今日の小テストのことで頭がいっぱいみたいだよ。」 二人は笑いながら校門をくぐった。 昨日の妖精が無事目を覚ましたことを話すと、放課後再び頼子の家へ集まる約束を交わした。 昼休み、四時限目のチャイムが鳴り終わった直後だった。 学校全体が、底から突き上げられるような激しい振動に見舞われた。 ドォォォォォォォォン!! 「地震!?」 「いや、今の音、グラウンドの方から……!」 生徒たちが窓際に駆け寄る。 砂埃が舞い上がる中、そこには「存在してはいけないもの」が立っていた。 体長5メートル。 全身を硬質な外殻で覆い、顔の中央には血走った巨大な一つ目が鎮座している。 右腕は禍々しく変質し、その爪の先からは赤黒いエネルギーが滴っていた。 「……オッタ……ウラギリモノ……ココニ……イル……」 それは、ナラカから追ってきたサイクロモンだった。 ゲートの残滓を辿り、ついにこの世界へと「侵入」を果たしたのだ。 「なに……あれ。CG? 映画の撮影?」 誰かが震える声で呟いた。 だが、その疑問への答えは、あまりにも凄惨な形で示された。 サイクロモンが右腕を振り抜く。 轟音と共に一階の教室の壁が粉砕され、逃げ遅れた生徒たちが瓦礫の下へと消えた。 飛散するコンクリート。悲鳴。 そして、アスファルトを汚す、鮮やかな赤い液体。 「ア……アア、アアアアッ!!」 誰かの悲鳴を皮切りに、教室は地獄絵図へと変わった。 「逃げて! みんな、裏門へ!!」 なつ子が、パニックに陥ったクラスメイトを必死に誘導する。 頼子の膝は震え、呼吸すらまともにできなかった。 窓の外で、サイクロモンが校舎を食い破るように進んでくる。 その巨大な一つ目が、校舎の二階――頼子のいる教室を捉えた。 「見ツケタ……羽虫ノ……ニオイ……!」 サイクロモンの拳が、窓を突き破って教室に突っ込んできた。 「頼子!!」 なつ子が頼子の腕を掴み、廊下へとはじき出す。 直後、先ほどまで頼子がいた場所は、机も椅子もろとも粉砕された。 「ハァッ、ハァッ……なにこれ、なんなのよこれぇ!」 「いいから走って! みな実、頼子の手を離さないで!」 三人は崩れゆく廊下を必死に駆けた。 その頃、頼子の家。 ティンカーモンは見た。闇のスピリットが禍々しく輝き、脈を打つ様子を。 「何かが…起きている?」 ティンカーモンは予感に従って家を飛び出した。 サイクロモンの執拗な追撃は止まらない。 帝国から送り込まれたこの兵器は、獲物を逃がすほど甘くはなかった。 校舎の裏、神社の森へと続く裏口まであと少しというところで、一筋の光が空から舞い降りた。 「頼子!!」 ティンカーモンだった。ボロボロの翅を酷使し、彼女は頼子の元へ辿り着いた。 その腕には、あの黒いオブジェ"闇のスピリット"が抱えられている。 「これを……これを使って! あなたなら、あいつを倒せる!」 「無理だよ! アタシ、ただの中学生だよ!? こんなの、ただの置物じゃん!」 「違う! これは、ナラカを滅ぼすための呪いなの! あなたの心の闇を、力に変えるのよ!」 「グルゥァァァァァァッ!!」 背後の壁を突き破り、サイクロモンが三人の前に立ち塞がった。 逃げ場はない。 目の前には、巨大な一つ目の怪物。 「死ネ……! 劣等種ドモ……!」 サイクロモンが肥大化した右腕を振り上げる。 頼子は恐怖で目を閉じた。 「頼子、伏せて!!」 衝撃音。 だが、痛みは来なかった。 恐る恐る目を開けた頼子の視界に飛び込んできたのは、自分を庇うように両手を広げて立つ、なつ子の背中だった。 「……な……つ、こ……?」 なつ子の胸に、サイクロモンの巨大な爪が突き刺さっていた。 「ぁ……」 なつ子の口から、一筋の血が溢れる。 眼鏡が地面に落ちて砕ける。 「……よ、りこ……にげ……て……」 なつ子の体が、崩れるように地面に倒れた。 動かない。 さっきまで、自分を叱ってくれていた親友。 将来は一緒に東京に行こうねって約束した、一番の親友。 「アハ……ハハハ……ッ!」 サイクロモンが、愉快そうに一つ目を細めて笑った。 頼子の頭の中で、何かが「パチン」と弾けた。 悲しみ? 違う。 そんな綺麗なものじゃない。 なつ子を殺した怪物への、そして、何もできなかった自分への、底なしの、ドロドロとした殺意だ。 「殺してやる……」 その声は頼子自身のものだった。 憎悪だけが異様に増幅され、理性の歯止めを焼き切っていく。 頼子が、震える手で地面に転がった「闇のスピリット」を掴んだ。 その反対の手のひらに自然と"ディースキャナ"が出現する。 「あれは…スピリットに選ばれた者に現れるディースキャナ!頼子…あなたはやはり…」 瞬間、闇のスピリットが呼応するように、ドクン、ドクンと激しく鼓動を始めた。 頼子の金髪が逆立ち、瞳が紅く染まる。 「殺してやる……殺してやる! 全員、バラバラにしてやるんだぁぁぁぁぁッ!! ――スピリット・エボリューション!!」 ディースキャナに闇のスピリットがロードされる。 黒い霧が、頼子の体を包み込む。 それは進化というより、肉体を侵食する呪いだった。 骨が軋み、筋肉が再構築され、魂が闇に溶けていく。 霧の中から現れたのは、少女の姿ではなかった。 漆黒の鎧を纏い、全身に配置された不気味な「目」がぎらぎらと蠢く、異形の騎士。 両腕には、血の色の長剣『ブルートエボルツィオン』が鈍く光っている。 ダスクモン。 「……アハ。……ウケる。」 鎧の奥から漏れ出したのは、頼子の声ではない。 それは、理性を完全に失い、狂気に取り憑かれた獣の咆哮。 「ナ、ナニ……!? オマエハデジモンナノカ……ッ!?」 サイクロモンが、初めて恐怖に一つ目を泳がせた。 ダスクモンは言葉を発しない。 ただ、地面を蹴ったという認識すらさせぬ速度で、サイクロモンの懐に潜り込んだ。 「ガァッ!?」 ブルートエボルツィオンの一閃。 サイクロモンの右腕が、根元から切断され、宙を舞った。 断面からデータが、まるで血のように噴き出す。 「痛イ……痛イィィッ!!」 「痛いの? もっと、もっと教えてよぉ!!」 ダスクモンは狂ったように笑いながら、サイクロモンの巨体に次々と刃を叩き込んでいく。 それはもはや戦闘ではなく、一方的な「解体」だった。 右目、足、腹。 ダスクモンは、敵が死ぬことよりも、敵が苦しむことを優先しているかのようだった。 「死ね! 死ね! 死ねッ!!」 ダスクモンの胸部の巨大な目が、妖しく発光する。 『ガイストアーベント』。 サイクロモンの精神に、直接「死」以上の絶望を叩き込む技。 「ヒッ……ギ、ギィヤァァァァァァッ!!」 サイクロモンは、もはや反撃する意思すら失い、泡を吹いて地面を転げ回る。 ダスクモンはその喉元を踏みつけ、ブルートエボルツィオンをゆっくりと振り上げた。 「バイバイ。ゴミクズくん。」 ――――――――――――――――――――――――――――――――             ■  ■■■ ■■■■■■■■■■■■■             ■  ■■ ■■■  ■■■■■   ■     ■       ■■ ■■ ■■   ■■■■■ ■■■     ■■■    ■■■■■■■■■  ■■■    ■■■      ■■■■■ ■■■■■■■■■ ■■■ ■■■■■■        ■■■■■■■■■■  ■■■■■■■■■■■■          ■■■■■■■■■ ■ ■■■■ ■ ■■■ ■           ■■■■■■■ ■■■ ■■■■ ■ ■  ■            ■   ■■■ ■ ■   ■   ■ ■            ■  ■■■ ■ ■ ■■■ ■  ■             ■■■■■ ■■         ■■■            ■■■■■■■ ■      ■  ■■■■              ■■■■■  ■    ■■■■■■■              ■ ■    ■■■■■■■■■■■■             ■   ■   ■■ ■■■■■■■■             ■     ■ ■■■■ ■■■■■■■   ―――――――――――――――――――――――――――――――― 無慈悲な一突き。 サイクロモンの頭部は粉砕され、膨大な黒い粒子となって霧散した。 戦いは終わった。 だが、そこに勝利の歓喜はない。 ダスクモンの鎧が剥がれ落ち、頼子の姿に戻る。 「ハァッ、ハァッ……」 彼女は自分の手を見た。 そこには何もついていない。だが、あの怪物を切り裂いた時の「肉の感触」が、指先に、脳裏に、べっとりと張り付いて離れない。 「……なつ子?」 頼子は、動かない親友の遺体へと這い寄った。 その表情は、安らかですらなかった。 ただ、理不尽な暴力に奪われた、無念の形。 「なつ子……ねえ、起きてよ……アタシ、倒したよ……? 嘘でしょ……?」 返事はない。 背後で腰を抜かしたままのみな実が、震える声で頼子の名を呼ぶ。 「より……ちゃん……? あなた……今の、なに……?」 頼子はその問いに答えられなかった。 自分が手に入れたのは、ヒーローの力などではない。 友を救えず、ただ敵を惨殺するためだけに産み落とされた、呪いの力なのだ。 空を見上げれば、そこには不気味な紅い月が浮かんでいた。 いや、それは現実の月ではない。 ナラカの空が、この世界を蝕み始めている証拠だった。 天を突く鉄の塔、ペアレンシズ帝国の司令室。 「報告いたします。現実世界へ送り込んだサイクロモンの反応が消失しました」 影の中から、一匹の亜種デジモンが跪いて告げる。 「ほう……」 玉座から立ち上がったのは、赤黒いマントを翻す巨大な影。 通常のグレイモンとは異なる、ウイルス種の禍々しい気配を放つ個体。 グレイモン司令である。 「たかがニンゲン界の偵察で死ぬとは。所詮は通常種か。」 グレイモン司令は余裕の笑みで持っていたグラスの赤い液体を飲み干す。 「だが別世界。ククク……面白い。実に面白いじゃないか!この世界には退屈していたところだ。」 彼は一歩、前へと踏み出した。その瞳には、純粋な悪意が宿っている。 司令は窓から、ゲートの先に広がる青い惑星――地球を睨みつけた。 「全軍に告げよ! 予定を前倒しにする。 ゲートを全開にし、あの脆弱な世界を弱肉強食のナラカの法へと塗り替えてやるのだ!」 司令の咆哮に合わせ、数万のデジモンたちの軍勢が、現実世界へとその牙を剥いた。