これは、最初からそういう約束だった。 彼女をだますための出会いではない。彼が彼女の意思を奪うための夜でもない。駅前で声をかけることも、彼女が少しずつ心を傾けていくふりをすることも、ある言葉をきっかけに自分の感情が強まっていくという設定も、すべて二人が事前に決めていた遊びだった。 三十歳の会社員である彼――悠真は、その日の昼休みに彼女と短いメッセージを交わしていた。 『今夜、本当にやる?』 彼女――美咲から返ってきた返事は簡潔だった。 『やる。最初に、ちゃんと計画済みだってわかるようにしてね』 『もちろん。無理ならすぐ止める』 『セーフワードは前と同じ』 『了解』 それで、準備は終わっていた。 だから今、金曜の夜の駅前で、悠真が少し緊張した顔をして立っているのも、偶然ではない。彼の視線の先に、美咲が現れたのも偶然ではない。 彼女はベージュのコートを羽織り、仕事帰りらしい黒いバッグを肩にかけていた。髪はゆるく下ろされ、耳元の小さなピアスが街灯を受けて光っている。悠真を見つけても、彼女はすぐには近づいてこなかった。少しだけ周囲を見回し、知らない男に声をかけられる女を演じるための距離を保つ。 悠真は一度だけ息を吐いた。 そして、彼女の前に立った。 「すみません」 美咲が足を止める。 「はい?」 声は落ち着いていた。けれど、目の奥にだけ、いつもの彼女の笑みがあった。 「急にすみません。さっき見かけて、どうしても声をかけたくなって」 ありふれた言葉だった。けれど、それが今日の始まりの合図だった。 美咲は少し警戒するように眉を寄せた。演技だとわかっていても、悠真の胸はわずかに高鳴る。 「ナンパですか?」 「そうです」 彼が正直に答えると、彼女は小さく笑った。 「正直ですね」 「回りくどいのが苦手なので」 「会社員さん?」 「はい。三十歳です」 「私も三十歳です」 「じゃあ、同い年ですね」 美咲は彼の顔を眺めるように見た。初対面の女として。けれど、二人の間には、すでに共有された台本があった。 「少しだけなら」 彼女が言った。 「お茶くらいなら、いいですよ」 悠真は頷いた。 「ありがとうございます」 駅から少し離れたところにあるカフェに入る。照明は低く、窓際の席からは夜の通りが見えた。仕事帰りの客が何組かいて、話し声が静かに混じっている。 二人は向かい合って座った。 注文を終えたあと、美咲が頬杖をつく。 「それで、どうして私だったんですか?」 「雰囲気が好きだったから」 「ずいぶん曖昧ですね」 「でも、嘘ではないです」 美咲はふっと笑った。 「そういうところ、少し好感持てます」 その言葉が、最初の鍵だった。 悠真は声を落とした。 「俺に好感を持つたびに、その気持ちが少し強くなる」 美咲の指先が、カップの縁で止まった。 彼女は一拍置いてから、目を伏せた。 「……そういう設定でしたね」 「今、確認する?」 「大丈夫」 「無理なら止める」 「止めない」 美咲は顔を上げた。 その表情には、まだ余裕があった。けれど、その余裕の下に、わざと揺らぐような甘さが混じりはじめていた。 「合意します」 その一言で、場の空気が変わった。 悠真は深追いしない。急がない。彼女が自分の足でこちらへ近づいてくるように、言葉の間隔を置く。 「俺の声を聞くたびに、少し安心する」 「……はい」 「目が合うたびに、もう少し知りたくなる」 美咲は視線を逸らした。 「ずるいですね」 「ずるい?」 「そういう言い方をされると、本当にそういう気がしてくる」 「それも、決めたことだから」 「わかってます」 彼女は小さく息を吐いた。 「でも、わかってるのに、思ったより効きます」 悠真は黙って彼女を見る。 美咲はカップを持ち上げたが、口をつける前に止めた。 「今、あなたのことを感じよく思いました」 「うん」 「だから、その分だけ、少し好きになったことにします」 「自分で決めるんだ」 「そう。私が決めます」 その言い方が、悠真にはたまらなく魅力的だった。 彼女は支配されているのではない。自分で決めたルールの中に、自分で入っていく。だからこそ、その演技には危うさではなく、濃密な信頼があった。 しばらく、二人は普通の会話をした。 仕事の話。最近読んだ本の話。休日の過ごし方。美咲はときどき初対面の女の顔をし、ときどき彼の知っている美咲に戻った。そのたびに悠真は、距離を測る。 「こうして話してると、知らない人って感じがしないですね」 美咲が言った。 「俺もそう思う」 「また、好感度が上がりました」 「じゃあ、また少し強くなる」 美咲のまつげが震えた。 「……はい」 「俺のことを好ましく思うたびに、胸の奥が熱くなる」 彼女は返事をしなかった。 代わりに、唇を少しだけ噛んだ。 「美咲」 名前を呼ぶと、彼女は一瞬だけ目を閉じた。 「名前で呼ぶの、早くないですか?」 「嫌?」 「……嫌じゃないです」 「じゃあ、そういうことにする」 「何を?」 「俺に名前で呼ばれると、距離が近くなった気がする」 美咲は小さく笑った。 「本当に、ずるい」 「合意する?」 彼女は彼を見た。 その目には、もう最初の余裕が半分ほどしか残っていなかった。 「合意します」 その声は静かだったが、熱を帯びていた。 カフェを出るころには、夜はさらに深くなっていた。駅前の喧騒は続いているのに、二人の周囲だけが切り取られたように感じられる。 並んで歩きながら、美咲はわざと彼から半歩離れていた。 「まだ初対面ですから」 「そうだった」 「でも、初対面なのに、もうかなり好印象です」 「じゃあ、また強くなる」 「……はい」 彼女は俯いたまま答えた。 しばらく歩いたところで、美咲が足を止める。 悠真も止まった。 「どうした?」 「このまま帰ったほうがいいと思います」 「うん」 「でも、帰りたくないとも思ってます」 悠真は何も言わずに待った。 ここは彼が誘う場面ではなかった。今日の筋書きでは、彼女が選ぶことになっている。彼女が自分の意思で次の扉を開ける。 美咲は顔を上げた。 頬が赤い。 「ホテル、行きませんか」 言葉ははっきりしていた。 悠真はすぐには頷かなかった。 「本当に?」 「本当に」 「現実確認」 その一言で、美咲の表情が少しやわらぐ。芝居の幕が一度だけ下りる。 「大丈夫。続けたい」 「セーフワードは?」 彼女は事前に決めた言葉を口にした。 悠真は頷く。 「言ったら即中止」 「わかってる」 「嫌なことがあったら、設定じゃなくて普通に言って」 「うん」 それから彼女は、もう一度だけ初対面の女の顔に戻った。 「……行きましょう」 ホテルの部屋に入ると、ドアが閉まる音がやけに大きく響いた。 白いシーツ。低い照明。窓の外に見える夜の街。非日常の空間に入ったことで、美咲の演技はさらに深くなった。 彼女はバッグを置き、コートを脱いだ。 「変ですね」 「何が?」 「さっきまで知らない人だったはずなのに」 「うん」 「もう、あなたに見られてるだけで落ち着かない」 悠真は近づきすぎない距離で立った。 「それも、決める?」 美咲は彼を見る。 「私があなたに好意を感じるたびに、身体も気持ちも深く反応する」 彼女は自分の声で言った。 悠真は尋ねる。 「合意する?」 「合意します」 「今も?」 「今も」 「これからも、やめたいと思ったら止められる」 「わかってます」 彼女は少し笑った。 「でも今は、止めたくない」 シャワーの音が部屋に満ちた。 悠真はベッドの端に座り、深く息を吐く。こういう時間が一番、現実味を帯びる。扉の向こうで水音が続いているだけなのに、彼女が戻ってくるまでの数分が妙に長い。 やがて音が止み、バスルームの扉が開いた。 美咲は濡れた髪をタオルで押さえながら戻ってきた。いつもより無防備に見えるのは、服装のせいだけではない。彼女がもう、今日の設定を完全に受け入れているからだった。 「見すぎです」 「ごめん」 「謝らないでください」 「じゃあ?」 「もっと見てください」 悠真は立ち上がった。 美咲は逃げなかった。 互いの距離が近づく。手が触れる。肩が触れる。美咲の呼吸が浅くなる。 「俺に触れられるたびに、もっと俺を好きになっていく」 悠真が言うと、美咲は目を閉じた。 「……はい」 「俺の近くにいるほど、帰りたくなくなる」 「はい」 「それでも、全部、自分で選んでる」 彼女は目を開けた。 「選んでます」 その言葉は、甘い芝居の中で唯一、まっすぐな現実だった。 ベッドに沈むころ、部屋の空気は静かに熱を帯びていた。 美咲は彼の手を握ったまま、何度も小さく息をつく。悠真は彼女の反応を急かさず、ひとつひとつ確かめるように触れた。 「今、どう?」 「……好きになってる気がします」 「気がする?」 「ううん」 彼女は首を横に振った。 「好きになってます。そういう設定なのに、ちゃんと私の気持ちみたいになってる」 「怖くない?」 「怖くないです」 「続ける?」 美咲は彼の首に腕を回した。 「続けて」 声が近かった。 悠真は彼女の耳元に口を寄せる。 「この先、俺を受け入れるたびに、好意がもっと強くなる」 美咲の身体が小さく震えた。 「……合意します」 「ひとつ進むたびに、もっと俺を求めたくなる」 「合意、します」 「俺のことが好きだと思うたび、その気持ちがまた次の好意を呼ぶ」 美咲はもう、返事の代わりに彼の名前を呼んだ。 その夜、二人は決めていた境界の中で、ゆっくりと深く互いに溺れていった。 美咲の声は何度も甘くほどけた。はじめは抑えようとしていたのに、やがて隠しきれなくなり、彼の肩にしがみつきながら、途切れ途切れに言葉をこぼす。 「好き……もっと、好きになってる……」 悠真はそのたびに、彼女の髪を撫でた。 「うん」 「だめ……そんなふうに言われたら、また……」 「また?」 「また、あなたのこと、好きになる……」 その言葉は設定であり、演技であり、同時にその瞬間の本音でもあった。 何度も名前を呼ばれ、何度も距離を失い、何度も互いを確かめ合う。美咲は甘い声を長く漏らし、熱に浮かされたように彼を見つめた。 「悠真さん……好き……好き、です……」 「美咲」 「呼ばれると、また……胸が熱くなる……」 「それも合意したから」 「はい……私が、そう決めたから……」 彼女は何度も頷いた。 「もっと好きになるって、決めたから……」 やがて、部屋に静けさが戻った。 空調の低い音だけが響いている。美咲はシーツにくるまり、悠真の腕の中で目を細めていた。髪は少し乱れ、頬にはまだ熱が残っている。 しばらく、どちらも話さなかった。 先に口を開いたのは美咲だった。 「ちゃんと、最初に言ってくれてよかった」 「計画済みだって?」 「うん」 「途中で何度も言うと、雰囲気が切れると思ったから」 「それでいいと思う。最初にわかっていれば十分」 彼女は彼の胸に頬を寄せた。 「でも、現実確認を入れてくれたのは安心した」 「そこは必要だから」 「うん。だから、深く入れた」 悠真は彼女の髪を撫でる。 「嫌なところは?」 「なかった」 「強すぎたところは?」 「少しだけ、名前を呼ばれるのが効きすぎました」 「それは嫌?」 美咲は首を横に振った。 「好き」 それから彼女は、少しだけ照れたように笑った。 「次も入れてください」 「名前?」 「名前と、好意が強くなるやつ」 「気に入った?」 「かなり」 「じゃあ次も、最初に決めよう」 美咲は満足そうに頷いた。 「次は、どんな設定にします?」 悠真は少し考えた。 「また駅前で声をかける?」 「うーん」 彼女は指先で彼の胸元をなぞる。 「次は、会社の懇親会で初めて話す設定がいいです」 「同じ会社?」 「部署は別。お互い顔は知ってるけど、ちゃんと話したことはない」 「そこで俺が声をかける」 「そう。私は最初、少し警戒する」 「でも?」 「あなたの話し方が意外と優しくて、だんだん好意を持つ」 「その好意を感じるたびに?」 美咲は笑った。 「また、胸が熱くなる」 悠真も笑った。 「ホテルには?」 「私から誘います」 「そこも同じなんだ」 「そこがいいんです」 彼女は少しだけ顔を上げ、彼を見た。 「私が選んでる感じがするから」 「実際、選んでる」 「はい」 その返事は、夜のはじまりに言った「合意します」よりも、ずっと穏やかだった。 悠真は彼女の額に軽く触れた。 「じゃあ、次の約束」 「来週の金曜」 「仕事終わり?」 「十九時半。場所はあとで送ります」 「了解」 美咲は目を閉じた。 「次も、最初にちゃんと言ってください」 「これは計画済みだって?」 「はい」 「わかった」 「それなら、途中では言わなくていいです」 「雰囲気を壊さないように?」 「そう」 彼女は眠たげに微笑んだ。 「その代わり、ちゃんと私に選ばせてください」 悠真は頷いた。 「約束する」 美咲は彼の腕の中で、安心したように息を吐いた。 「じゃあ次も、私はあなたを好きになっていくところからですね」 「うん」 「そして、好きになるたびに……」 彼女はそこで言葉を止めた。 悠真が続きを促すように見ると、美咲は少しだけ頬を染める。 「また、今夜みたいになる」 「合意する?」 彼女は目を閉じたまま、柔らかく笑った。 「合意します」 その言葉を最後に、二人の会話はゆっくりと夜に溶けていった。