「――坊。そこな坊。この哀れな婆の為にそこの煙管を拾うてくれんかえ」  艶やかな声。上品な印象を抱かせる、落ち着いた声色が薄暗い牢に響く。埃臭い空気の中にあって尚、白檀の香りを思わせる色香。蕩けるように広がる声が耳に届いた。  呼びかけである。誰かが、自分ではない誰かに呼びかける声である。  であるからして、ここには二者の存在がある。  一方は少年。  黒髪の、投げかけられた声にびくりと震えた、気弱そうな立ち振る舞いの少年。白い水干と紺色の袴を身に纏う齢十程の――牢の外に立つおのこ。  一方は女。  銀色の、気怠げな雰囲気の女。酒に焼けたものか、或いは煙に煤けたものか、深みのある声を投げかけた当人。襤褸切れとしか見えない着物の残骸を身に纏い、肌の大部分を露わにした、年齢不詳の――牢の内に繋がれた女。 「うん? 初に見る顔よな」  こてん、と首を傾げる女。その動作に伴ってふわと揺れる髪は些か油気に欠けてはいるが、絹のような細さを持ちながらも、同時に鋼線の如き強かさを併せ持っている。人の女のそれではない。ならば妖か。 「坊、名は何じゃ?」 「……」 「だまりかえ。父母に礼儀を習わんだかや?」 「……言っちゃだめだから……」 「ほう、愛いのう。取り下ろしてやろうと思うたが中々確としておるな」  名とはその者の存在を規定し、詳らかにするもの。それは霊的な常識であり、妖と相対するものにとって何よりも最初に教え込まれる始元の一歩。少年の家が平安以前より脈々と受け継がれた退魔の家である事を考えれば、その受け答えはまだ幼い少年にも確かに次世代への教育が受け継がれていることの証左であった。  同じ事を察したのか、幾年経ても教えが繋がれておるのう、とにたり嗤う女の顔には札が貼り付けられている。……いや、釘で、左目の部分に打ち付けられているのだ。痛々しいそれを、女は何一つ斟酌していない。 「坊、汝(なれ)はヤスチカより数えて幾代目かや?」 「……泰親様? 泰親様から数えると大体……二十一くらい……?」 「二十一……ははあ、歳月は矢よりも、婆の焔より速いものよ。婆が坊の前に話したのは十七代目のおのこであった。きゃつは名を上げたかえ?」   「十七だと……煕光様? 煕光様は早逝なされたけど……」 「――なんと。ううむ、ままならぬな……。大成せしめれば婆を殺し得る才質持ちておったものを……」  あたらしやあたらしや、と呟く女。  言の葉を交わした事でようやく少年もその女の存在に慣れ始めたのか、背けていた目をそちらへ向けて……すぐ逸らす。  当然だ。女の纏っているものと言えば乳房に僅かに引っかかる程度の面積しかない着物の残骸の布きれだけで、後はその豊満な身体を何一つ隠すことなく曝け出しているのだから。  経産婦なのであろうか、布きれからはみ出た黒く色素の沈着した乳輪。むちりと雌肉の乗った肢体と、脚の付け根に輝く髪色と同じふさりと生えそろった銀の陰毛。女陰には申し訳程度に札が貼り付けられているが、初めて見た母親以外の――それも豊満すぎる肉付きの――女体に少年はカッと頬を赤らめる。 「はあ……全く汝らの命はまことに細く短い。婆の元へ通う者が現れようともすぐに死ぬ……。おかげで婆は暇をしておる」  ……しかし、すぐさまその赤らんだ頬も色を落とした。  その女の身体の随所が、黒き龍鱗で覆われていること。へし折れた片角。全身を埋め尽くす古傷の痕。膝から下の失われた左脚。  そして腹部に施された太極紋。  それらの特徴を持つ妖。それを彼は朧気ながらも知り得ていた。  少年の生家において、今彼が立ち入っている地下階層の内には妖を封じ込める牢としての役割を持つ区画がある。  鍛錬用のさほど強力ではない妖を補充するべく地下に降りた少年であるが、道に迷って最下層にまで立ち入ってしまったのである。  ……しかしそも、本来なら妖など封印する必要はない。封印しなければならぬ類いの存在であればそれは元来討たねばならぬモノである。封印して留め置いておく必要はなく、討滅されるのが常である故に、必然的に地下の牢区画は概ね伽藍の如き閑散たる様相を呈している。  だが眼前に封ぜられたる女――龍人の妖は、生きている。  一つ一つが脆弱なる妖なれば存在を霧散させる強度の封印を雁字搦めに、幾重にも施されているにも関わらず、軽やかに言の葉すら紡いでみせる。  そんな存在は彼の生家においてただ一匹のみ。  悪龍、椏腥(あせい)太夫(だゆう)。  かつて少年の子孫が今となっては平安と呼ばれたる時代に、多大なる犠牲を払おうとも、遂に絶命させる事能わなかった最悪の龍人種。 「……おばあちゃん、椏腥太夫だよね?」 「ほう、婆の名を知りおる。如何にも、婆が椏腥太夫である。坊の名は?」 「言わない……」 「利発なり。ヤスチカは良い後胤を設けたの」  婆の言ひ掛けには掛からぬか、とけらけら嗤う椏腥。  少年が彼女をおばあちゃん、と呼んだのは椏腥の一人称が婆であるからだが、よくよく見てみれば目尻や口元に僅かに皺が浮かんでいる。人間で表すと概ね四十から五十の程だろうか。  ……千の歳月をこの牢で重ねても、尚その程度の老いしか浮かばない存在なのだ。  ごくり、と少年は唾を飲み込む。  ようやく眼前の美しい魔性の女に、おぞましい存在としての認識がかみ合った。  じりと後ずさる。その細やかな音が、静謐なる地下区画にひどく響く。 「――坊」 「っ」  けれどそれを縫い止めるべくぽつりと投げかけられた声。  その全身を縛されて尚、依然として艶やかな笑みを維持して見せる悪龍はつい、と少年をその視線で射貫き。 「煙管くらいは拾うてくりゃれ。婆の口元に咥えさせてくれようものなら尚良いぞ」  それとも、その程度も出来ぬ腰抜けかえ?  そんな色を含んだ視線にカッとなった。……なってしまった。  若いというのは良い事だ。向こう見ずな勇気。ともすれば蛮勇とでも呼ぶべきもの。臆病さ、或いは遠慮からくる尻込みを突破し得るもの。幼い時分の細やかな過ち。その時は痛い目を見るかもしれないが、きっと経験は将来血肉となることだろう。  ……無論、そのたった一度の過ちで、致命的な破滅に直面する事がなければ、だが。 「……はい、どうぞおばあちゃん」 「あむ。……うむ、坊は愛い童じゃな。これからも婆の無聊を慰めるのに付き合うてくれんかの? 無論、名は告げんでよい故な」  牢の隅に落ちていた煙管を、そっと椏腥の口に差し込んでやれば、彼女は起用にそれを咥えたままに喋り出す。  ……その姿に、伝え聞く恐ろしい伝承の面影はない。好々爺ならぬ好々婆の様相。体つきと服装故に目のやり場にこそ困ってしまうが、椏腥は少年にとって優しげな印象だった。  ……だから。 「……うん。また、今度ね」  だから、幼子はその言葉を紡いで踵を返してしまい。 「――そうかえ」  後ろ姿に投げかけられた声の、にやり嘲笑う悪意に気付く事はなかった。