カメラの前に揺れる二本の指。地名を意味する流暢な英語、いくらか拙い日本語。 電波に乗って画面の先の、誰ともわからない大勢に向けての挨拶の定型文が飛ぶ。 白黒のメッシュの入った鮮やかな赤い髪に比して、彼女の周囲の光景は寒々しい。 彩度の失せた枯れ草は既に地を覆うだけの余力を持たず、踏み均された土の色が目立つ。 山々の尾根は白く染まり、灰色の空との境は見えず、点々と溶け残った雪が地にも這う。 撮影機材を揃えた一団がしっかりとコートを着込んでいるのに対して、 なおさらその薄着は目立つのである――非対称な目に眩しい黄色と薄緑、白い肌。 傍らの老人がスタッフに何かを問うた――彼の言葉もまた聞き取りにくい。 強い訛りのある話しぶりは、彼女らの英語交じりの日本語と同じぐらいには反規範的で、 字幕が表示されていなければ、視聴者の一体どの程度が会話の内容を理解できただろうか? その割に、接続者の数は随分と多かった。三桁を容易に超えて四桁の半ば―― 今をときめく電子の新たなアイドルの一人が、その華やかさとは裏腹の、 ひどく寂れた牧場にやってきての、動物との触れ合いという企画など、そうあるものではない。 おらが国の生々しい――生活に密着した、泥臭い獣に、外国女がどれだけ仮面を被れるか? 柵の向こうにぽつぽつと見える黒い点は、尽きかけた草を食むただの牛である。 彼女らの騒ぎ立てるのをちらりと見たほかは、首の鈴すら鳴らさず口だけを動かしている。 牧場主が何度か声を張り上げて呼ぶと――実にのったり、のったりと歩いてきては、 まだ厩舎に戻るには早い、と言わんばかりの顔を彼らに向けるのであった。 少女がその大きな頭に触れ、ついで背中に触っても、やはり大した反応はしない。 ばしばしと、少しく強めに触れてみても――声を上げたのは牛ではなく、老人の方だった。 うちのベコはどいつものんびり屋だから、撮っても面白くねぇぞ――と。 柵一つ跨いだ隣の羊たちも好き勝手に鳴くだけ。小屋の中の鶏も豚も、どうということはない。 動画に付くコメントも、次第に退屈さを隠さないものになっていく――耳打ちされて、 少女はいくらか焦りを見せた風だった。態度に露骨には示してはいないものの。 残っているのはただ一つ、最後の厩舎だけ――ここで撮れ高を得られなければ、 今日こうして時間を掛けた意味がない。視聴者たちも離れてしまうかもしれない―― だが牧場主はその小屋に客人を入れることを渋った。もごもごとした口ぶりはなおさら、 字幕があってさえ記号の羅列にしかならず、誰一人その内容を理解できたものはない。 それでも、彼が強く止めないのをいいことに、一団は強引に、その中へと突き進む。 しん、と静まった小屋の中は、本当にそこに家畜の飼われているのか怪しませるほどだった。 飼葉の中に、身体を丸めているその影は、静けさゆえに酷く小さくも見えるのである。 設置された撮影機器の前で、大仰な挨拶と台詞とを繰り返した彼女は、 その家畜のすぐ近く、手の触れるような距離にまで近付き、声を張り上げた。 薄灰色の塊が、ゆるりと動いた――黄金色の瞳が、じっ、と少女を見る。 横に割れた瞳孔。人間とは違う、異形の瞳。悪魔のモデルにもなった、怪し気な眼。 そこに映る自身の姿に、彼女は呆気に取られた。不意に、自分の姿を見失う。 ぬるりと立ち上がった獣の体躯は、明らかに彼女の想定よりも数倍大きかった。 へたり込んで、見上げる体勢になったのもあろう。だがそれ以上の威圧感は、 蛇に睨まれた――ならぬ、山羊に睨まれた鼠、といった様子である。 スタッフ達は彼女の様子に異様なものを感じ――止めようとする。だが、動けない。 彼ら自身、この山羊の魔力の渦の中に引き込まれてしまっているかのように。 視聴者もまた、電子に濾された映像越しでさえその変化を感じ取っていた。 大きな角が、ゆっくりと振られた――その勢いに、誰もが突き飛ばされるように倒れる。 至近の彼女はなおさら、山羊の威容に打ちのめされて腰が抜けてしまっていた。 そして頭上から――怪しい瞳に睨まれて自分を失い、がくん、と倒れ込む。 山羊は少女の衣服の端を咥える――草を食むのとは違う、食い千切るような歯の動き。 それは草食動物というよりも肉食動物の――もっといえば異類、悪魔の―― 撮影機器だけは淡々と、彼女の鮮やかな衣装が端切れへと化していくのを映していく。 けれどそこに下卑たコメントを書き込むだけの正気を持ったものは既にいない。 世界が一度に石化して、ただ山羊だけが己の時間軸の中に動いているのだ。 裸に剥かれた少女は、恐怖に引きつった顔の中に、困惑とも言えない感情を浮かべている。 狂人のそれである、と言えばそれまでだが、見ようによっては、新郎を目の前にした新婦の―― 白い肌の上に薄灰色の塊ののしかかるのを、そこにいる誰もが見届けながら、止められない。 腰の動きが、明らかに彼女を辱めるための――交尾のそれであったとしても。 少女の喉から、ずたずたに切り裂かれた英語の断片がこぼれても――それが熱を帯び始めても。 その光景に呑み込まれていないのは、ただ牧場主の老人だけであって、 彼は彼で、客人が自分の家畜に汚されているという異常に対応するだけの力を持たず、 また撮影器具をどうすればよいかという知識すらも持ってはいない。 こぼれ聞こえる声が、次第に高く――絞め殺された蛙のように悲痛になるにつれ、 ようやく彼は、交尾そのものを止めればよいという結論に至った。 箒を振り回し、地面を叩き回り――薄灰色の毛皮の上にも十数編打ち込んで、 やっと山羊は哀れな鼠を解放する気になったようだった――しかし彼女の肉体は、 自身の倍近い体重のある大柄な家畜に覆い被さられたせいですっかり潰されて、 すぐには起き上がれず――開かされた股を閉じるだけの力も残ってはいない。 スタッフ達に強引に引き起こされた彼女の顔は――不気味な微笑みを湛えていた。 結合部の映っていなかったこと、ある種の冗談として受け止められたこと――そんな背景から、 彼女の醜態は、しばらくの活動自粛という禊によって次第に風化していった。 だが――それでも熱心に足取りを追っていった一部の人間は、 その言動の中に、件の牧場や山羊への言及の増えていることに気付かざるを得ない。 熱を帯びた口ぶりで語られるものの中に――獣の呼び名を表すものが混じっていることにも。 やがて彼女が再びの活動自粛を言い始めた際に、彼らだけはその理由に気付いていた。 嘔吐感や体調不良、精神の不安定化――そんな判断材料がいくつも提示されていたのだから。 再度大衆の前に姿を晒した少女の姿は、一年前とはすっかり変わり果てていた。 肌を晒さないよう、ゆったりとした衣服で身体の線を隠してはいるものの、 大きく前に突き出した腹部は、布地を盛り上げて異様な膨らみを作り出している。 “とある人”から譲り受けたという山羊を横に座らせてちらちらとそちらを見る視線は、 恋人に向けるそれ――いや、主に向けるような従僕、奴隷のものであった。 彼が角ごと頭を持ち上げると、少女は放送中であるにも関わらず、その頬にキスをする。 蠱惑的な微笑みを彼にだけ向けて、太い角と頭を撫でる―― 放送の終わり際、映像の止まってのち、声だけが切られずに残ることがあった。 甲高い英語混じりの嬌声が、水音と共に繰り返され――何かのぶつかる音がする。 それが何を意味しているかを、視聴者達は理解している。そしてまた、“次回”を待つのだ。 腹部を愛おしそうに撫でる彼女が、指折り数えて待つ重大発表の現実となる日を。 悪魔に魅入られた女が、より深く冥い世界へと堕ちていく姿を見届けたいと願う―― あるVTuberを母に、悪魔を父に持つと称する新たなアイドルのデビューしたのは十数年後のこと。 彼女の母の名を知る人は――母親譲りの“厨二病”の名残だろうと一笑に付したが、 あの光景を見たものは、それを単なる設定とはとても思えないのであった。 画面越しにさえ見える、横に割れた怪しげな瞳に――人ならざるものの血を感じたから。